爪に春をいろどる

桜の花びらが流れるように吹く、日差しのやわらかな春の休日。ぶらりと行ったコンビニで適当な物を見繕い、のんびりと歩いて帰る。鍵を開けてドアノブをまわすと、おかえり、と同居人の陽気な声。
ただいまァ、と不死川が足を踏み入れると、ツンと鼻を刺す臭い。嗅いだことのある……生徒の落書きを消す時の……ああそれと、宇髄が爪の色を落とす時の臭いだ。
部屋の真ん中で、ローテーブルの上に色とりどりの小瓶を並べ、床に座った宇髄が上機嫌で左手の爪を塗っていた。少しずつ色味や形の異なるピンク、黄色、紫、青の瓶……こんなに持っていたのかと驚く。予想した通り、部屋に漂う換気しきれない臭いは、ひときわ大きなボトルの除光液のようだ。
「くさかったらごめんな?ハゲてきたなって思ってたからさぁ…いい天気だし、あったかいし。」
普段の、自信満々な顔でなく、今日の陽ざしのようなやわらかい表情で、中指に桜色を乗せている。楽しそうでこちらの気分も少し上がる。買い物の荷物をテーブルの端に置いて、宇髄が背中を預けているソファに腰を下ろすと、手元がよく見えた。すでに塗られた薬指は白っぽい色、小指は中指と同じ桜色だ。宇髄は爪の面積が広いのだろうが、よくもまぁそんな大きな長い指でそんな小さなところにはみ出さず色が塗れるものだ。感心して見入ってしまう。
「器用なもんだなァ。」
「だろ。もうすぐ入学式だからな、ド派手に新しくしねぇと。」
新入生が真似して塗りたがったらどうする。風紀を担う体育教師の冷たい視線が頭をよぎる。
桜色の筆が中指を2、3度なぞる。それを瓶の中に戻してくるくると締める。道具を扱う指先が美しい。次はくすみがかった紫色の小瓶を開け、人差し指に色を置く。
「見て。さねみちゃんの色。」
そう言った宇髄が、筆を持った方の手で自分の目を指す。
「俺の、目ェ?」
「そうそう。愛されてるだろ?」
自分の目の色が日がな一日宇随の爪の上に乗っている様子を想像しまう。生徒に渡すプリントをめくる時も、休み時間にマグカップを持ち上げる時も。嬉しいやら恥ずかしいやらで、銀の髪を撫でれば、今は触るなと怒られた。
照れ隠しに小瓶の一つを手に取る。
「あっ、それ!いい色だろー?」
若葉を思わせるのに、ほんのりと重みを帯びた緑。色のセンスはとんとない不死川だが、好ましい色だと思った。最初は、桜色とこれを合わせるつもりだったらしい。
「けど伊黒に怒られそうな気がしてよ……」
言われてみれば、伊黒の彼女の髪色が似たような組み合わせだったような気がする。なるほど、ねちねちと嫌味を言われそうだ。
せっかく新色だったんだけど、と口をとがらせる宇髄の髪にまた手を伸ばしかけ、今度は思いとどまった。
「そーだ!さねみちゃんに塗ろ!」
さもいいことを思いついたような声を上げ、左手を塗り終えたらしい宇髄が不死川の方を向く。す、と緑色の瓶を取り上げられた。あとで落としてやるから、と楽しそうに親指を捕まえられてしまう。乾く前の宇髄の爪に当たってしまわないかと冷や冷やして、手がこわばる。それを嫌がっていると勘違いしたのか、
「だめ?」
と赤い目が見上げてきた。抵抗する気は微塵もない。ふ、と力を抜いて笑ってやると通じたらしい。宇髄は嬉しそうに捕まえた指に口を付けた。
緑色の筆から余分なしずくを落とし、宇髄の指が、不死川の親指をうやうやしくつまむ。ほんの少し息を詰め、筆を乗せる。ひた、と予想外な感触がして、肘のあたりまで緊張が走った。
「意外と冷てぇな。」
「そうだよなー。爪なんて、温度とか感じないかと俺も思ってた。」
同じ爪に二度、三度、と緑を重ねると、厚みが出て色味がはっきりしてくる。それを、人差し指、中指……と丁寧に続けていく。浮かれているけれど、真剣な目が不死川の爪にそそがれて、指先が熱くなっていく気がした。動かさないように、と思うとだんだん力が入ってしまって、手のひらが湿ってくる。指先から意識を逸らそうと、宇髄の顔を見る。集中して伏せられたまつ毛が一本一本よく見えた。
「おお、いい感じ。」
5本の指を塗り終えた宇髄は、不死川の手を少し遠ざけて、全体のバランスを見ると、満足そうな顔をして、次は反対側の手を捕まえた。先ほどと同じように一本ずつ丁寧に色を乗せていく。不死川は先に塗り終えられた手をどうしていいかわからず、大きく広げたまま余計な力を入れてしまう。
「はい、完成。」
両方の手がようやく解放されて、思わず大きく息を吐いた。変に固まってしまっていたせいで肩が凝った気がする。
「乾くまでパーしたまま動かすなよ。」
「ええ…。」
それはあまりに不自由だ。不満を顔に出せば、おもしろそうに笑った宇髄に手首を掴まれた。そのまま顔を近づけてきたかと思うと、手のひらをべろりと舐められる。
「おまっ、」
「だぁめ、動かすなって。」
悪いことをするときの顔になった宇髄がそんなことを言って、また手のひらを舐め、人差し指と中指の股へ、ずる、と舌を入れてきた。舐められたところから肘、肩、背筋へと鳥肌が立つ。思わず手を握ってしまいそうになるのを、耐える。宇髄はさらに薬指、小指の股へと舌を潜らせ、手のひらの側面を吸いながら下りていって手首の皮膚を軽く噛んだ。
ぴく、とわずかに手が揺れて、それを見逃さない宇随が口角を上げる。その形のいい唇に我慢ならなくなって、自分のそれを寄せた。しかし軽く触れただけですぐに離されてしまう。
「だめって言っただろ。」
「今のはお前が悪いだろォ……」
大きなため息をついてしまう。片方の手首は封じられたまま、もう一方も、せっかくきれいに塗られた爪を駄目にするわけにいかず、中途半端に宙に投げだしたまま、あきらめて背中だけソファにもたれかかった。宇髄はくつくつとたいそう面白そうに笑いながら寄って来て、ほんとは、どうせ落としちゃうんだからいいのに、と不死川の頬に唇を付けた。
「そーゆうとこ、律儀で、好き。」
「せっかくやってもらったからなァ。宇髄ィ……乾いたら責任取れよォ。」
離れていく唇を追いかけるようにしたら、唇が尖ってしまって、拗ねているみたいになってしまった。
「もーちょっと、待っててな?俺ももいっこ、やっちゃうから。」
宇髄がさらに笑って、まだ手を付けていなかった自身の右手をひらひらさせる。不死川はますますため息を吐いて、降参と言わんばかりに両手をあげた。宇髄がまた座り直して桜色の小瓶を取る。眠くなるような陽気の中、そんな春の空気に似つかわしくない熱を持て余して、手はあげたまま、不死川はずる、と沈んだ。

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