スモロログ2 - 1/3

ここで押し負けてはならない。
黒い星の刺さったビールから汗が垂れて天板に溜まっている。
一日の疲れを吸った服を脱いで、一週間、否、もはや日を数えたくないほど溜まった諸々を流して、腹を満たして寝る。なによりもそれを優先するべきだ。大きな男からキスとともに降ってくる重みを、ローはわずか残った腕の力で押し返していた。
靴の底が跳ねるような心地の夜、洒落たイタリアンにもすし屋にも、カラオケにも、ラーメン屋にさえも行き損ねた大の男ふたり、コンビニのビニール袋をローテーブルの上に落とした。連日記録を更新する猛暑を乗り切り、日が暮れてもなおまとわりつく空気の中を泳いで帰った。毛先からつま先までびしょ濡れだ。のろのろと並べた食糧は、ペットボトルからもらった結露が部屋の明かりを反射して、くたびれた目には元気がすぎる。
風呂に入らなければ。
横目で見た鮭ハラミ。明日の朝ごはんにするわけにはいかない。おにぎりの陳列を眺めるうちすっかり鮭の口になっていたのを葉巻で上書きされてしまう前に、岩みたいな厚みの胸板を押し返す。思いの外すんなりとスモーカーは離れた。ちょうど満足したところだったのもしれない。
「風呂に入るぞ」
「待て、ビールを冷蔵庫に入れる」
時間が惜しいから一緒にと招けば、冷蔵庫を開けた手を一瞬止めたが、すぐに風呂場についてきた。お互いセックスする気ならローがひとりで入るから、つまりそういうことだ。今夜はそうじゃない。キスもセックスも、したいときにする。
手早く汗を流して、ゆるい部屋着に袖を通した。ひんやり素材のカーペットに座って、プルタブを開けるのを今か今かと期待している。たとえ明日どちらかが息絶えて、今日が最後の夜になったとしたってセックスしない。恋人といえる男と過ごす金曜の夜がいつだって情熱的なわけはない。同じ釜の飯を食うことで満ち足りる日も、ある。もっとも、同じ釜で炊かれたかどうかは、些末なこと。
「乾杯!」
さっぱりしたからか、いくらか力の戻った声を合わせた。ビールを注ぐのはスモーカーの担当。いろんなことに頓着しない男が、泡と金色の比率とか、珈琲を蒸らす時間だとかに凝り性を見せると知ってもう長い。
ずずっと吸い込んだ泡を追いかけてきた苦み。細かな二酸化炭素をぱちぱちと喉で弾けさせる。スモーカーの喉仏が大きなストロークで上下している。働ききった、ご褒美。
「っあ――っ、うまい!」
グラスが冷えていればもっと、なんて贅沢は言わない。スモーカーの泡髭を拭った指を舐めた。週末の味。
それぞれが好き放題かごに放り込んだものを手に取る。たこ焼き、お好み焼き、唐揚げ……スモーカーは粉物の気分だったらしい。ローはといえば、炭水化物同士とわかっていてもおにぎりははずせない。さっき奮い立たせてくれた鮭ハラミ。濡れた開け口を破ればしっとり艶めかしい海苔に白い粒がひしめきあって包まれている。みちっと歯で破ると舌に乗る塩気と脂。白く走る筋に沿ってほぐれた身はふっくら膨らんだ米と絡んで頬をいっぱいにする。かいた分の汗を補給するだけのようなタブレットより、この塩気がいつも愛おしい。
「ついてるぞ」
太い指が口の端についた米を持っていってしまった。
「おれの米」
スモーカーの口に入る前に奪い返すと、爪の先からソースの匂い。そっちも美味そうだ。スモーカーはたこ焼きを二つ箸で刺して、大きな口に放り込む。行儀の悪さも、家の中にふたりなら見過ごせる。いくらか噛んであっという間にビールで流し込むから「もっとよく噛め」と思わず言ってしまう。ローだって似たようなものであるのに。あっという間に空になったグラスに新しい泡が注がれる。とぷとぷと上がっていくモコモコを見ながら次のおにぎりの封を開ける。海苔のない真っ白なそれは頬ずりしたくなる艶やかさだ。米にぎゅっと包まれた真ん中に、しらすと高菜が隠れている。しゃきりとした歯ごたえに混ざるふんわりとした魚の腹。しょっぱいくらい染みた醤油が白米と合わないわけはない。いっぱいに頬張った幸せを噛み締めている横で、溢れた泡をスモーカーがずずっと吸った。乾杯と言えないローのグラスに勝手にカチンとやって、あっという間に飲み干してしまう。いつもは煙とため息ばかり吐いている口から低く掠れた母音が長く長く伸びて、命の声だなと笑った。
下界に出て来たばかりの新しい泡でおにぎりを腹に収めて、からあげに箸を伸ばすとスモーカーも同じだった。ふたり揃って、衣にかりっと歯を立て滲んだ肉汁を飲む。もぐもぐやりながら次のプルタブを上げる。プシッと新鮮な音の前にグラスを差し出して、ついでにローはスモーカーの口の端からソースとマヨネーズの混ざったものを拭った。
「おれのソースだ」
「お好み焼きがまだあるだろ」
ビールを注いでくれるその間に、べたつくラップをはがして蓋を開ける。
「ほらお前のソース」
容器の淵からソースの移った指を差し出すと、大型犬みたいにべろりとやられた。
口元が緩んでいる。スモーカーの表情も、心なしか。
たっぷりの泡で満たされたグラスを無言でぶつけて、絡んだ目線はまたそれぞれ、からあげとお好み焼きに戻っていった。
ふたりの休日は、これから始まる。
(テキストライブ「食べるスモロ」)

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