『なるべく早く帰ってきて』
ロック画面に一瞬だけ表示されたメッセージアプリの通知。時刻は14時、終業まではまだまだ。向こうも定時には早いし、今日は行事で早く帰るなどといったことは聞いていない。
壁の大きなホワイトボードを確認する。月間目標、週間予定、本日のToDo……同じグループメンバーの予定に目をやる。直属の上司は外勤中。あの取引先ならば戻りは遅いはずだ。
スマートフォンのロックを解除してアプリを開く。『兄さん』のトーク画面には通知されていた文面と、申し訳程度に『くれると助かる』と続きが書かれていた。こういうメッセージを送ってくるのは、ひどく腹を空かせている時だ。
朝はいつもと同量を飲んだはずだが、怪我でもして失血したのか。
自分の首の傷は止血してから8時間と少し…今から帰るとして、頸動脈は避けなければ。大きくひとつため息をついて簡単にデスクの上を片付け、重いカバンを取り、斜め向かいの同僚に声をかけた。
「外行ってきます。そのまま直帰で。」
同期の社員は特に気にした様子もなく、ひらひらと手だけ振ってくれた。日ごろの行いというのは、こういう時のために良くしておくに越したことはない。
兄さんの食糧は人間の血液。吸血鬼というものが本当に存在するのかはわからないが、性質としてはそれに近いのかもしれない。肉や魚、野菜などといったいわゆる普通の人が口にするものは食べないし、栄養にならない。母親の母乳は血液からつくられているためか飲めていて、生後半年ほどは気づかれなかったらしい。離乳食期以降は大変だったそうだ。母方の血筋はもともと海外らしく、兄さんの髪や目の色はそちらの遺伝だ。その家系をたどっていくと、まれに同じような体質の者が産まれていたらしい。海外では、珍しくはあれど一定数症例があるおかげで専門のルートがあり、献血用の血液をまわしてもらって兄さんは育った。
学生の頃はその体格のわりに小食であることをごまかすのに本人も母も必死だった。
大人になった今は、幼少期から変わらず定期的に届けてもらえる血液ストックと、俺の血液が主な食糧だ。思春期ごろに摂取量が増えて、母が血液を提供しようとしたこともあったが、女性の身体には大変な負担だった。ふらふらとやつれていく姿が見ていられなくて、自分が引き受けた。
コンビニで鉄とたんぱく質が含まれているものをこれでもかと買った。昼ご飯はいつも通り自作の弁当をたらふく食べたが、帰ってからのことを考えるとそんなもので足りるわけがない。脂っこいものは兄さんが嫌がるので避ける。
そういえば返信していなかったことを思い出して電話をかける。ずっとスマホを握っているのか、コール1回でつながった。
「…。」
「兄さん?」
「ごめ…。」
泣きそうな声で息が荒い。
「怪我したの?」
「ちが…。怪我したのは生徒…。」
ああなるほど。合点がいった。本人が失血していないことにひとまず安堵する。失血時に比べれば提供量は知れている。
出血するようなことがあれば、物理的に不足するため急激な空腹に襲われる。そうでないのにこんなことになる時は、誰かの血液を長時間目の当たりにした時だ。流れ出る血を見ると、非常時に備えて備蓄せよと身体が警鐘を鳴らすのか、飢餓状態のようになる。
「仕事あがったから帰るけど、待てそうになかったら冷蔵庫にストックあるから。」
それだけ言って電車に乗るため電話は切った。
朝晩の通勤時と違って、車内はそれほど混んでいないが、がらがらというわけでもなかった。学生のような人、老人、移動中の会社員、おや子連れ、旅行者や、自由業のような人……。様々な生活背景やルーツを持った人間が乗り込んでいる。自宅を一歩出てしまえば、兄さんも普通の人と同じ生活だ。専門教科の教員という職業は、フリーの時間も取りやすく、まぎれて暮らすには条件がよかった。過去に何度か同じようなことがあって「血の苦手な宇髄先生」というイメージも定着しているらしく、こういう時にはとても役に立っていた。
自宅の鍵を開けると兄さんは玄関で俺の着替えとハンガーを持って待ち構えていた。ジョギングでもしていたかのような息遣いで、力ずくで引き寄せられる。背骨が鳴りそうなほど抱きすくめられ、首に鼻を埋められて匂いを吸い込まれた。
「兄さんまだダメ。」
「わかってるよ、わかってる。」
「スーツは血が取れないから。」
「わかってるってっ…。」
スーツを脱ぎ落していくのも待てないと言いたげに、手がさわさわと首のまわりを触っている。せわしなく匂いをかぐこともやめられないようだ。朝噛んだところから血の匂いがまだするのかもしれない。血管に爪を立てたくなるのか、軽く引っ掻いてきては思いとどまるように拳をぐっと握りしめている。
「よく我慢したねこんな状態で。」
「学校でだれか噛んだら俺もうあそこで生きていけない。」
「そうだね。えらいね。」
「お前の血しか飲みたくないし。」
「そうだね。」
「だから早くちょうだい。」
ワイシャツを脱いで邪魔だった襟がなくなったら、兄さんがぐわっと大きく口を開けた。その口を手で阻む。
「首はダメ、朝噛んだから。」
スーツもかけてからね、と兄さんが持っていたハンガーを取ってジャケットとスラックスをかけ、シューズボックスの取っ手に引っ掛けた。身体が冷えると血流が悪くなるから半裸もよくない。俺を抱きしめたときに床に落とされていた上下のスウェットを拾って身に着けた。兄さんはまだかまだかと踵を何度も浮かせている。
餌を待たされた犬のようになった兄さんの手を引いて、寝室まで引っ張って行った。
「俺たぶん回復するのに時間がかかるから。」
「うん。」
「あとで兄さんが風呂に入れて。」
「うん。うん。」
防水シーツを敷いてあるベッドに座って、いいよ、と腕を差し出す。四つん這いで本当に犬みたいに近づいてきた兄さんが、肘の内側にある動脈を確かめるようにべろべろと舐める。多少舐めてくれたほうが、痛みが少ない。必要なものを摂取しやすいように身体の機能が設計されているところはどんな生き物も変わらない。
普通の人間よりも鋭利な歯で血管を破られる感触が実は好きだ。喰われる、と思うのと同時に、与える、という優越感がふくらむ。
栄養のバランスを常に考え毎日だいたい決まった時間に食事をする。喫煙やアルコール摂取はしない。なるべく睡眠時間も確保し、適度な運動。そうやって整えられた自分の血液が兄さんの血肉になる。拍動に合わせてびゅ、びゅ、と噴き出る兄さんの眼と同じ色のあたたかさで、この美しさはできている。
「ううー―――…。」
ごくごくと喉を鳴らしながら兄さんの手が股間に伸びる。相当我慢していたのだろう、空腹にごちそうを与えられてかなり興奮しているようだ。下着の中に手を突っ込んで自分のものを上下に扱き始めた。
「う、んくっ、う、ん、んぐ」
手に合わせて腰を揺すりながら口は俺の肘に必死で食いついている。結構な勢いで血を抜かれて、その分だけこちらも快楽に襲われる。食糧が途中で逃げてしまわないよう、血を飲むときに傷口に触れる唾液には催淫効果がある。おかげで兄さんの食事のたびにこういうことをする羽目になるのだ。いくら健康的に暮らしていたって、なかなかに体力がいる。
「兄さん。」
呼びかけたけど聞こえていない。もう順を追うことが面倒になって、足の指で兄さんのボトムと下着を引っ掛けて下ろした。後ろの孔からこぼれ始めたぬめりが下着にひっついて糸をひいている。
両足の間に自分の足を潜り込ませ、自身で扱き続けているものは無視して足の甲で孔をぺちんと叩くと、兄さんが大きく跳ねた。
「ふあっ!」
口が肘から一瞬離れて、血液が一筋垂れる。あわててそれを舐め取ってまたそこに吸い付いた兄さんの後孔を今度は足の甲で擦る。
「や、ぁ…!」
「挿れてもいいよ。」
口が離れてしまってどく、と血液があふれ始める。ベッドサイドに常備してあるバスタオルを一枚とって、傷口をぐっと押さえた。
「いいの?死んじゃわない?」
「兄さんが加減してくれたら死なない。」
たぶん。兄さんはもう俺の血しかほとんど飲めない。食糧を引き受けた時から、時間をかけてそういう風にした。保存血液は飲めるけどいざという時の非常食だ。自分だけが生死を握られているなんてそんなアンフェアなのは性に合わない。この血液がなくなったら、兄さんはきっと死ぬ。
「加減する…。」
少しだけ腰を浮かせてやるとスウェットを脱がせてくれた。唾液の効果も手伝って、兄さんを笑えないくらいには、自分のものも上を向いてしまっている。
「ごめんな。」
こんな体で。張り詰めた俺のものを少しだけこすって、兄さんが上に跨った。
「いいよそんなの気にしなくて。」
熱く蕩けた入口が昂ぶりの先を包む。
「ほんとはっ…ふ、つぅのっ…セックスがしたっ…。」
ずぶずぶと自分の中に俺を受け入れていく兄さんが吐き出した言葉に、とても共感した。長いまつ毛に包まれた目から涙がこぼれる。それすら原材料は俺の血液。
「兄さん、涙もったいない。」
ちゅう、と吸って自分の身体に返す。余計な効果に無理やり高められなくとも、この美しい生き物と肌を合わせるのは十分に体が熱くなるはずだ。
タオルで押さえていた傷口を顔の前に出す。かなり強く押さえていたとはいえ、まわりにも血液がべったりついている。兄さんは背中をかがめてそこにまた吸い付いた。じゅうと命が抜かれる感触がして、同時に兄さんの後孔がぎゅうと締まる。応えるようにぐいと押し付けるとまた口が離れてしまった。
「あっ…ふ、んぁっ…うご、く、なって…!」
乾き始めていたまわりの赤い染みの上を新しく零れた血が流れていく。
「全部舐めて。」
「うん、うんっ…ごめんっ…。」
大きな舌を丁寧に這わせて一滴も逃すまいと舐めてくれる。舌がなぞったところからぞわぞわと熱が下半身へ向かって集まり続ける。兄さんはまわりを綺麗にしながらも、新鮮な血液が噴き出す穴を吸い続けることを怠らない。懸命に食事を取る様子に興奮してしまって、まだ挿れたばかりなのに今日はぜんぜんもちそうになかった。
大きな背中を俺の肘に向かって苦しそうに丸めている兄さんのものも、苦しそうにたらたらと体液を零している。兄さんが吐精する前に終わらせなければ、何もないところにそれが吐き出されてしまうのだ。もったいない。
「今度はお腹がすいてないときに、しようか。」
耳に吹きかけてやるとぶるぶる震えながらうなずいた。弾けそうな陰茎の根本を握る。
「あっ…!?」
「俺がいくまで出したらダメ。」
片腕を取られたままで動きにくいからかき回すように動かす。声を出すとまた無駄な出血が増えるから、鼻だけで荒い息をしながら兄さんは喘いだ。それでも時々息継ぎをするようにぱかりと口が開いて血が零れる。
「ん、あ、う、んんん、あっ…ごめっ…ああん」
「いいよあとで綺麗にしてくれたら。」
そろそろ頭に血液が足りなくなってぐらつき始めている。根本を締めていることで逃げ場がなくてぐるぐる膨れあがる快感を全部後孔に集中させて、兄さんが俺のものをぎゅうぎゅうと抱きしめた。
「兄さん上手。こっちもあげるね。」
「うん、うんんっ…!!」
熱い粘膜に精液を吐き出す。急に血流が激しくなってまたびゅっと血が流れ出たのを見て兄さんが慌てて肘をくわえた。
ごく、ごく、ごく、と血液も精液も飲み込まれて、兄さんを生かしている感じが安心感を与えてくれる。だがそろそろ止めないと意識を失いそうだ。こちらにも栄養を還元してもらおうと、せき止めていた陰茎を解放した。
「俺にも飲ませて。」
口を開けると兄さんがそうっと昂ぶりを入れてくれる。傷口はさっきのタオルで押さえてくれているから、腹は満ちたのかもしれない。
「死なない?」
「たぶんね。」
ふらふらする頭で口と顎だけ動かして喉の奥で締めると、さっきまで待てをされていた兄さんのものはあっという間に弾けた。どろり絡みつく体液を飲み干す。毎日のストイックな管理が無駄にならずにすんだ。
手加減しろと言ったけど、いくぶん吸われすぎた気がする。帰りに買い込んだ鉄分入りの飲み物だけなんとか飲んで、止血は兄さんに頼んでそのまま眠ることにした。
「ごめんな…俺がこんなじゃなかったら、お前ずっと一緒にいなくていいのにな。」
申し訳なさそうな顔で俺の髪をなでる兄さんの声を遠くに心地よく聞く。この毎日の生活の中で、兄さんだけが異質で、でもそれは食べるもののせいじゃない。俺は兄さんが普通の人間だったとしても、きっと同じことをすると思った。
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