めぐる - 2/2

父には兄がいたらしい。
親戚のことは聞かせてくれたことがなくてよくわからない。
母は三姉妹で仲が良く、ばあちゃんじいちゃんの家には節目ごとによく集まった。うちは俺ひとりだったけど、おばちゃんちはそれぞれ子どもが3人と4人。集まると俺を含めて従弟妹8人。年もいい具合にばらけていたから俺たちはよく遊んだ。父も母方の実家へ行くのは嫌いではなかったようで、隅っこに空気のようにいて、騒がしい子どもたちを眺めていた。
父の方はというと、実家とは学生のころから疎遠だったらしい。母でさえ、あちらの実家のことはよく知らないのだと言っていた。結婚前後は複雑な気持ちだったみたいだけど、今となっては、式で親族の数が合わなくて大変だったのよ、と笑い飛ばせるくらいにはなっている。全部耳でかじっただけだから、その辺の苦労は子どもの俺にはよくわからない。
ひとつだけ知っている手掛かりは、時々寝言で口にする「兄さん。」
そういう時はだいたいうなされていて、だから単純に家族仲が悪くて疎遠なのだと、思っていた。

もうすぐ父は死ぬらしい。
余命宣告を受けた時、健康診断にも行かない人で、何かあったら心配だからってずっと言ってきたんだけど、と母が泣きながら肩を落としていた。俺はまだ中学生で、来年からは高校にあがるし、生活のこととか不安なことがたくさんあるのだから当然だと思う。
本人は、いつものように淡々とした顔で医師の言葉を受け止めているように見えた。
でも俺にはわかった。
母さんや会社の人、母方の親戚からはいつも表情が変わらないと言われていたけれど、そんなことはない。ちゃんとこの人は眉や口角が少しだけ動いて表情を作るのだ。父は昔から、忙しい合間を縫っていつも俺のことを気にかけ、よく一緒にいてくれた。小さい頃何度も抱っこされて近くで顔を見ていたからか、俺にはその表情の変化がわかった。
その日の父は、安堵しているように、見えた。

そこからはあっという間だった。父は手術を受けないと言った。なんとなくそうかなとは思っていたけど、自分の部屋で少しだけ泣いた。母は3日も泣いていた。
薬の投与が始まって、それでもギリギリまで働いていた父は、急に悪くなって入院した。医学が発達した今の世の中では、簡単には死なせてもらえないらしい。延命は希望しないときっぱり意思表示した父は、それでも少しの管につながれた。積極的な治療はしないものの、それでも細く長く生き永らえさせようとはたらく何かが感じ取れて、その繋ぎ止めているものを切ってあげたくなったことは、誰にも言えなかった。

その日は俺が病室にいた。入院してすぐのころは昨今の感染症のせいで面会ができなかったけど、付き添いを許可されるほどに死期が近づいていた。昼間静かだった父は、夜になるとうなされた。額から汗を流して、声も出さず、乱れた呼吸で時折喉をつまらせていた。
元気だったころもそんな夜がたまにあったから、いつものことかと思って手をさすったら、父が反対側の手を宙に伸ばしてびくりと震えた。驚いている間に、つながっていた機械の音が急に変わる。遠くからバタバタと走ってくる音。開けられる扉。看護師さんの声。さっき伸ばした手はもうベッドに落ちていた。
何が起きているのかわからなくて俺は置いていかれた。
「落ち着いてね、何かあったらいけないから、お母さんに連絡しますね!」
先生をすぐ呼びますと、一度入って来た看護師さんは機械の数字を確認して出て行った。俺はせめて顔の汗でも拭こうとタオルを額に当てた。
すると信じられない素早さで手首を父が握った。小さく「兄さん」とつぶやいたその顔を見ると、赤い目が薄く開いていた。

その瞬間本当に世界がぐるんとまわった。頭が地について、下から引っ張られるような。重力がなくなって胃の中身があがってきそうになる。
にいさん、と自分に向けて呼ばれる。俺は父と同じこの声とこの呼び方を知っている。もっと昔から。なんで。記憶の奥にへばりついていた暗幕を無理やりはぎ取られるような感触がする。その向こうには、映画で見たような古くて暗い村、9人のきょうだい、黒い装束、鉢金、父、そして……あれは村じゃない、里だ。忍びの……。

背中に手を添えられて我に返る。さっきの看護師さんがしゃがみ込んだ俺の口元に曲がった形をした皿を構えてくれていた。皿は幸い空だったけど、何度も嘔吐いていたらしい。
大丈夫ですとことわって立ち上がる。細長い赤と、目が合った。
「俺のこと?」
兄さん、て。まだ少しまわっているような気のする頭で絞り出す。赤が少しだけ丸くなって、そして弧を描くように細くなり、閉じた。
「いったん血圧も落ち着きましたからね、大丈夫。もうすぐお母さん来られるそうよ。」
父が眠ったことを確認して看護師さんは安心させるように笑った。いつの間にか医師も来ていて、機械を見たり点滴を確認したりしていた。母が来るまで側についていようかと言ってくれたが断った。少しだけ、2人にしてほしかった。
なにかあればナースコールをと心配そうな顔をされ、めいっぱいしっかりした顔を作って部屋から出てもらった。そう俺は子どもなのだ。弟の、子ども。
父の側に寄る。
「ごめん。」
小さくこぼすと、眠ったはずの体が身じろぎして、布団の中から弱く手が伸びてきたから握った。15年も俺を育ててくれた手。力強く抱き上げてくれていたそれは、驚くほど細くなった。
あの日、父が安堵した理由がわかった気がする。これまではなんとなく、父はもう生きるのを止めたいのだろうくらいに感じていた。けれど今は、弟をもう送ってやろうと思えた。
親子だから、深くは触れ合わないけれど、せめてと思って額と額をくっつける。
「ありがとう。」
どんな思いで側にいてくれたのかわからないが、至極普通に育ててくれたということがきっと、ひとつの答えなのだと思う。
今回はお前が姿を消すんだな。何も覚えていないままで申し訳なかった。
次がもしあるならば、少し待っていてくれたら。
弟はもう何も言わなかったけれど、握った手が少しだけ震えていた。
「またな。」
祈るように伝えると弟の右目が濡れた。遅れて左目にぱたと水が落ちる。
泣いているのは自分だった。

一度持ち直した父は2日ほどして亡くなった。母と、母方の親戚たちとで送り出した。
弟がひとりで記憶を持って生きた分を、これから俺が引き継いで生きていく。

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