10/31遅刻おたおめはぴはろ
リビングの扉を開けるとサスペンスだった。
床に広がる真っ赤な水溜まりの真ん中にうつ伏せているのは、兄の巨体。当直明けのあまりアテにならない頭を一振りして、服が濡れるのも構わず膝をついた。急激な気温の低下に伴って、総合病院は忙しい。一晩中あちこちから呼ばれた勤務を乗り越えて、休息モードになりかけていた体をたたき起こし、右手で頸動脈を触知。拍動している。
ひとつ息を吐いて、目線を上げる。壁にかかったカレンダー、今日を示す10月31日には赤いペンで大きなハナマルがつけられていた。昨夜出勤前にはなかったものだ。窓から差す白い陽に照らされてそこだけ光って見えた。
いくつかに絞られた可能性の、いずれにも苛立つ。
傍のテーブルに目をやると、カボチャのシールが貼られたケーキの箱、ワイン、シャンパン、ウィスキーの瓶に、崩れた花、それと紙袋からこぼれ出している大小さまざまのつづら。
「兄さん」
怒りを込めて呼ぶと、んんん、と首がまわってべったりと赤く濡れた締まりのない顔がこちらを向く。おかえりぃ、とだらしなく語尾を伸ばすその口からは、強烈なアルコールの匂い。
こめかみのあたりで、ぶつっと血管の切れたような音がする。それでも職業柄、兄の体を表に返し、外傷がないかだけ確かめた。
「びっくりした?」
「医者相手にやるイタズラじゃない」
「知ってる。怒るかと思ってた」
「俺を怒らせて楽しいの」
「だってそれぐらいじゃないと祝ってくれないだろぉ……」
「趣味が悪すぎる」
のろのろと兄が体を起こすと、赤い水滴がぴちゃぴちゃとそこらじゅうに跳ねる。あとでちゃんと掃除する気はあるんだろうか。もし汚れが落ちなかったりしたら、こんな奴は置き去りにして引っ越してやる。
体表面から漏れだしているだろう怒りに気づかないのか、わざとスルーしているのか、兄は血液もどきにまみれた大きな手の平をこちらに向けた。
「トリックおあ」
「お菓子をもらう前に盛大にイタズラしてるじゃん、バカなの」
相当酔っているようで、今日は何を言っても駄目だと悟る。寝不足と馬鹿々々しさでいい加減痛み始めた頭を揉む。この光景にまったく似合わない雀の鳴き声がベランダから響いてきていた。
この酒臭さと余計な演出さえなければ、日付が変わったのと同時に祝ってもらったのだろう、生まれた日の話を聞いてやるくらいは、してやったのに。同じ朝帰りでも、この浮かれた怪物と、汗みずくで労働してきたこの勤勉な身は不公平すぎて、おめでとうの一言を口にするのさえ腹立たしい。
退勤する時、先輩女医に持たされたあめ玉をひとつ、ポケットから出す。紫とオレンジがぐるぐると渦を巻く模様の包み紙から、大き目サイズの砂糖玉を指ではさんで、兄の顔の前にやった。
「もらったやつあったけど、食べる?」
「くれんのかよ。やっさしー」
あーん、と開かれた口は無視して自分の口内に放り込む。すぐに溶けだす甘み。だがよく親しんだリンゴやブドウとは違う、たしかカボチャとか言っていた気がする。変わった味だ。奥歯ではさんで、固い丸に上下から顎の力をかけると、ばき、と音がしてヒビが入った。そのまま兄の鼻を強くつまんで、間抜けに開いたまま待つそこへ、同じだけ唇を開けて嚙みついた。
「ふぐっ」
割れ目からドロリと濃い蜜があふれてくるのをそのまま兄の舌になすりつける。割れた半分を兄の口に押し付けて、残った半球を口づけたままがりがりと砕き、破片になったものも唾液と一緒に流し込む。
「んっ……く、うぐ、っっ」
こぼさないよう、兄が慌ててぴたりと唇をひっつけてくるものだから、むせ返るようなアルコールの匂いを浴びる羽目になって苛々した。先にやった、形の残っている半分を、舌を伸ばして取り返し、また奥歯で粉々になるまで噛んで、唾液とこねまわしてジュースを飲ませるみたいに全部兄の方へうつす。
太い喉仏がごくり、ごくりと飲み下すのを見届けて口と鼻を離してやると、驚いたような、期待するような、溶けた赤い目線がすがってきた。
「全部飲んじゃったね」
「へ……?なに、飲ませ」
「便秘治療の、治験段階のやつなんだけど、ちょっと変わった副作用がひどく出ることがあるらしくて」
口の端を舐める兄の舌は明らかに色をまとっている。
「そういう作用が強くでる人が、いるんだって」
飲み込んだ甘露がくだっていくのを外側からたどるように、喉、鎖骨の真ん中、前胸部、心窩部、とゆっくり人差し指をすべらせる。兄の息が上がっていくのがあからさまで笑えた。胃のあたりを手の平であたためるようにしてから、もっと下へ。臍のまわりに指の腹で円を描いて、そのまま少しずれた下方にまた手の平を当てる。
「排便を手伝う効果からきてるんだと思うんだけど」
「うん」
「結腸の口が、ゆるくなることがあるらしいよ」
「えっ」
わかりやすく、びくりと震える腹直筋。当てている手の平で、ぐうとそこを押さえてやると、兄の手がおれの袖を強く握った。は、は、と熱くなった息を吐き出しながら涙を目に溜めて、ごつい肩を震わせている。
兄の体が跳ねるたびに、まだ下半身を浸けている赤い淀みがぴちゃりぴちゃりと音を立てた。揺れる水面の赤に、勝手に煽られているようだった。
とどめとばかりに、親指の付け根の盛り上がった肉で、ひねるようにしながらさらに力を込めて、兄と一番深くつながった時に自分の陰茎がはまりこむ口を目掛け、圧した。
「――っく、ううう……」
シャツにすがりついている兄の指がぶるぶる震える。歯を食いしばったものの抑えきれなかった声がぼろりと漏れて、それが耳に届くと、それまでボコボコと煮立っていた怒りがすっと引いていった。
「なんてね」
ぱっ、と手と体を離す。
「そんなもの、あるわけないじゃん。兄さん卑猥な動画の見すぎなんじゃない」
「えっ」
突然のことに酔っ払いは目を白黒させる。先の行為へ期待を膨らませていたんだろう、体温の上がっていた体は硬直し、目から冷めた涙が一筋垂れた。
いいザマだ。
まだ状況に追いついていない兄にこれ以上触れることはせず、さっさと立ち上がって、赤いぬかるみから抜け出す。いい加減肉体が限界だ。血に汚れた服を取り去って、シャワーを浴びたら少しでも眠りたい。
被害をこれ以上広げないよう、その場で服をすべて脱ぎ捨てて全裸になる。赤がどんどん染みていくシャツを尻目に、洗面所へと向かった。
「服、捨てといて。それと、俺が起きるまでにそれ、片付けてね」
ひとかけら残っていた怒りを顔に張り付けて言いつける。大きな喉を子どもみたいにひくつかせて、兄は青ざめた顔をした。
それに気づいていないふりをして、今度はできる限り感じよく口角を上げる。
「誕生日、おめでとう兄さん」
最後に、振り返ることなく、洗面所の扉を閉めた。
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