7/11
少しばかり無理をしたような自覚はあった。恩師の個展に作品を出さないかと誘われて、スケジュールをよく考えもせず、ぜひと返答した。自由にやっていいと言われて、久しぶりにド派手なサイズの油彩をやることにしたら、元々制作するために充てていた場所では足りず、生活に使っていた椅子やテーブルを端に寄せ、しばらく誰も呼ばなければ問題ないかと邪魔になりそうな物をほとんどベッドの上に放り投げた。
そこから、学校での通常業務をこなしながら、帰ればオイルのにおいに囲まれて存分に白地を塗りたくる作業に没頭した。
折しも夏休み前だったので、仕上げ作業を夏休み期間にやることにして、そこまでの間、寝る時間と勤務時間以外はほとんど描いていた。
テレビは連日熱中症対策のことばかり叫んでいて、耳に残っていたからとにかく水分だけは不足しないように気を付けた。食事は少々取らなくても頑丈だからと手を抜きまくり、作業開始から1週間もするとほとんどプロテインバーのようなものしか食べなくなっていた。飲み会などの誘いをすべて断り時間とエネルギーを全振りしたおかげか、作業は予定より早めに進んでいたが、だんだん疲れが取れないことが増えて、体の調子が狂い始めていたのはわかっていた。
夏休み目前になると外気温は信じられないほど上がり、公共交通機関と徒歩で通勤する身は毎朝毎晩シャツを替えねばならないほどに汗をかいた。勤務開始前に購買で2リットルの水を2本買い、帰るまでに飲み切るくらいには水分補給を意識した。
それでも連日のうだるような暑さで帰宅後はへとへとで、少しのことで目まいがしたり、突然動悸を感じるようなことも増えて、食欲もわかず、身体の全体的なだるさがずっと残っているような状態になった。
とうとう終業式を終えた金曜、講堂の後片付けで汗だくになり、いつもよりもう1本多めに水を飲んだにも関わらず、足をひきずるように自宅に入って動けなくなった。昼頃からしていた頭痛は割れんばかりになっており、だるさと吐き気がかわるがわるやってきて、視界がぼんやりし始めていた。
熱中症には気を付けていたはずなのに、なる時はなるのか。それとも夏バテみたいなものだろうか。玄関で横向きにうずくまったまま意識を失いそうになって、最後の最後でようやく、俺はその連絡先をタップした。
ぱち、と軽く頬を叩かれて薄く目を開けると俺と同じ形のパーツが並んだ顔が厳しい目で見下ろしていた。呼ばれてすぐに来てくれたのだろう弟がそばに置かれた空のペットボトルをちらりと見ながら言った。
「兄さん、最後にご飯食べたのいつ?」
「今朝。」
「違う、補助食品みたいなのじゃなくて。ちゃんとしたご飯。」
それはいつだっただろうか。とにかく水分を切らさないように、ということだけは頭にあったが、最近はあんまり食べたくなかったこともあって、おかずのようなものを食べた日のことがもう思い出せない。
答えられない俺にため息をつきながらも、弟の手が額に触れて体温を、首元で脈を確認してくれる。今年度で医学部を卒業する弟の動きはとてもスムーズで迷いがなかった。おそらく今も研修中で俺なんかよりよほど忙しくしているのだろう。やっぱり呼ぶべきじゃなかったかもしれない。悪いことをした。
単なる夏バテかもしれないし、そんなことでこいつの手を煩わせるんじゃなかった。
ぐらつく頭が弱音ばかり吐く横で、玄関から見える範囲の部屋を見渡した弟の目がすっと細くなる。
「空のボトルって全部水?」
うなずいて、熱中症予防だよ、と言おうとして、胃からせり上がってきた嘔吐感に口を塞いだ。空にしたボトルは分別して捨てに行く時間がもったいなくて、糖分も塩分も入っていないからまぁいいかと、部屋のあちこちに置き去りにしていたものだ。また片付けてないと怒られてしまう。
弟は黙ってスマホを操作するとどこかに電話をかける。
手短に話をすませると俺の片腕を取って肩にかついだ。
「病院、行くよ。」
救急車呼ばれるの嫌なら気合いで立って。
そう言われて足を無理やり起こして踏ん張る。
だいたいこういう時は心底馬鹿にしたような顔で嫌味ばかりを言う弟が今日はそうしない。つまり茶化せるような状況ではないということ。
「なんでもう少し早く言わないの。」
少し減っているとはいえ、90キロ超えの俺を立たせるのに四苦八苦するその声に、小さな焦りが乗っていて、不謹慎にも嬉しいと思ってしまった。
「ごめん。」
「ごめんじゃすまないよ今回は。」
言い方は厳しいけどいつもより優しい。なんだ本当に具合悪い時は優しくしてくれるのか。そう思えたらさっきまでより楽になったような気がして、甘えるように肩を借りると、重い、と不機嫌そうな声が返された。
結局ろくなものを食べていなかったのと、水の摂りすぎで、体の中のミネラルバランスなるものが崩れまくっていたらしい。塩が足りなくてこんなことになるとは想像したこともなかった。病院に着いた頃には泡を吹いて倒れる直前だった俺はそこから病室に運ばれて点滴につながれ、翌日目を覚ますまでのことをよく覚えていない。
入院したのは弟の研修先の施設だったようで、少しの隙間をぬっては様子を見にきていると、看護師さんが教えてくれた。
可愛いとこあるじゃん、なんてつい口を滑らせたら、最悪死ぬことだってある状態だったのだと、馬鹿なんじゃないの、とこんこんと怒られた。
退院したら塩を送りつけてくれるらしい。ついでに俺がちゃんと飯食うか見張っておいてよ、と食事の約束を取り付けて、俺はまた病室の布団に沈んだ。
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