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土を跳ねて逃げる後ろ姿を見ながら、やっぱり夕方の練習にも参加しておけばよかったと思った。つまんねー意地はるんじゃなかった。がっちり掴まれた足首が捻れないように必死で体の向きを調整する。今、故障なんて、洒落にならない。
重心がずれてよろけ、仕方なく片手を地面につく。ある程度予想はしていたが、すぐ横の湿った土が盛り上がってきた。手首まで取られてしまったらどうにもならない。一拍で跳ねあがって今度は反対側の手をついてバランスを取った。
目を限界まで開いて、暗い土の上、何も飛び出てくる気配のなさそうなポイントを探る。霊感とかそういう類のカンは持ち合わせていないからどこでも一緒なのかもしれないけど。一番力の入りそうなところへ両手をつきなおす。掴まれていない方の足を少し後ろに置いて両の膝を曲げ、息を吐きながら祈る。全日本だってこんなに緊張しない。頼む、抜けてくれ。
全身のばねを使って後ろ側の足で地面を蹴る。両手を突っ張って土を握り、掴まれた足を踵から、思い切り宙に向かって引き上げた。
大会前で練習が詰まっていたにも関わらず、暑さと湿度のせいなのか連日調子が悪くてむしゃくしゃしていた。今期、取り組んでいたあん馬のフォーム改善がとにかく決まらず、無駄に長くなった足に毎晩風呂で恨み言を言っていた。コーチと揉めて、頭を冷やせと宿舎に帰されたところ、たまたま遊びに来ていたOBに声をかけられた。
誘いようからして、後輩の練習を見に来たというより、連れ立って遊ぶ女をひっかけに来たという感じだった。在学中も面倒見はよかったけどそういうところが部に迷惑をかけていた。成績はたいしたことなかったけど、家が大きくて寄付の額が大きかったから、もろもろ目をつぶられていて、でもそういうクズっぽさは嫌いじゃなかった。無駄に真面目で一生懸命なやつは好かない。ちょっとの不調ですぐ折れるからだ。
そうして連れて行かれた、霊感スポットツアー。ベタすぎて嫌になるし、別に俺が女と遊びたいわけじゃないのに、つまり体よくパンダにされたというわけだ。センパイのことは嫌いではないけれど迷惑なことは多々あって、こうやって使われるたびに変なのがわいて時々ストーカー化したりするところはやっかいだった。
何代か前のOBが合宿に使ったことがあるという、今は使われていない施設に4人で連れだって行った。ヒビの入ったコンクリート、割れたガラス、管理の団体が手を引いてからずいぶん経つらしく、なかなかの廃墟感。使われていた頃から霊が出るともっぱらのウワサだったらしく、夜、森の方へランニングに出かけた人が帰ってこなかったとかなんとか。
そんな阿保らしい話をセンパイから聞かされながら、こわぁいなんていう耳障りな声と共に建物のまわりをぐるりとまわった。当然なにも出なくて、ちょっと物足りない顔の女子2人を満足させるために、真っ暗な森に踏み入ったのが間違いだった。
人生において何の役にも立たない知識ばっかり集めているセンパイが言うには、大昔このあたりにあった集落でいっぱい人が死んだらしく、そこかしこに死体が埋まっているんだそうだ。明治時代に一度火葬が禁止になったこともあるけど、そもそもこんな山奥の田舎は土葬だったから、死んだ姿のまま埋められて、今でも起き出してくることがあるという……なんてもっともらしく怖がらせる語り口でしゃべりつづけるセンパイのおかげで異変に気付くのが遅れた。
さっきまでと地面の硬さが変わっていた。少し遠くに崩れた家のような形の影が見えたとき、人が歩いたことのある感触だったものが、水分を含んだやわらかい土になっていた。
「センパイ、道、わかってるんですよね?」
急激に押し寄せた不安にそう言ったら、当たり前じゃんと返されたけど、あたりを見回したセンパイの顔色が変わったから道を間違えたことは確実だ。
ざわざわと風が強くなり、割と近くでバサと大きな鳥が飛び立つ。腕を絡ませてきていた女が悲鳴もあげられず息をのんだとき、それは足元から飛び出た。
暗くて見えない。形を目でとらえようとして反応が遅れてしまったら、足首を取られた。手だ。暗い黒い、手。
一斉に汚い悲鳴をあげて残りの3人が逃げ出した。
足は思っていたより上がった。そのまま勢いをつけて先に上げていた足を向こう側へ振り下ろし、つられて動いた足首をねじり気味にすると、掴んでいた手がズルと外れる。感触が気持ち悪くて鳥肌が立った。両手で地面を跳ね返して上体を起こし、なんとか着地した。
たかが前方に跳んだだけで息が乱れている。さっきまで捕らわれていた方に目をやるとどす黒い人影が立っていた。小さい。子どものような。
さっき聞いた話とつなげて想像したら悪寒が止まらなくなった。霊とかオーラとか、元来そういうものは信じていない。だけどこれはそういうのとは違う気がする。もっと根深くて怖い何か。
ぐるんと体の向きを変えて走り出したけど、後ろから迫ってくる圧倒的な速さを感じて目をつぶってしまった。
がつんと、横から頭を殴られる衝撃。進行方向に向かって体にかかっていた力が吹っ飛ばされる。ああ頭でよかった。感覚からして手足はひねったりしていない。大丈夫、明日の練習も跳べる。
それだけよぎって、意識がなくなった。
そのあと気づいたのは病院で、頭には包帯が巻かれていた。あのあと警察とか救急車とか来ていろいろ大変だったんだとクズセンパイが半泣きで教えてくれた。なんでも俺のストーカーが後をつけてきていて、俺が一人になったあと鈍器で頭を殴ったらしい。置き去りにしたくせにそれでも心配して戻ってきたらしく、気絶したまま連れ去られそうになったところを一応は助けてくれたそうだ。
「幽霊に連れてかれて死んじゃうのかと思ってビビったよ~。」
と言うセンパイの顔に心底あきれた。人を変なことに使うからだ。
ふと思い出して、
「子どもがいませんでしたか。」
と聞いてみたけど、そんなものは誰も見ていなかったし、むしろ本当に幽霊を見たのかと興味津々で盛り上がりそうになったから病院のスタッフにお願いして引き取っていただいた。
誰もいなくなったあと、布団から足を出して病衣のズボンをめくると、足首に赤黒い跡が残っていた。小さな、指のような。
背筋をぞおっと寒さが走り抜けて、慌てて布団をかけ直す。今日は安静だからトイレに行くときはナースコール押してくださいねと言った看護師の言葉を思い出して、枕元のちょうどいい位置に垂らされていたものに手を伸ばした時、コンコン、と扉が叩かれた。
「失礼します、興信所の宇髄といいます。」
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