「陸の上の贅沢」
扉を開けると最初に目に入ったのは、先の尖った黒いヒール。左右がそれぞれ自分勝手な方を向いて転がる様は、持ち主の細い顎を思わせた。さっきまで包んでいた足首の温度を残したまま落とされたぬるい靴下、その先には細身のデニムがくしゃりと床にしなだれている。股上に重なったまま脱がれている下着は布面積がひどく少ないくせに圧倒的な存在感で目線を奪いに来ていた。またこんなの履きやがって。
すらりと長い足が通った跡をひとつずつ拾い上げ、キッドはため息を吐いた。消毒液の匂いと薄いゴムの手袋が似合うあの指の生活態度はひどくだらしない。どうせ片手に厚い本を持ったままひとつずつ落としていったんだろう。
デニムの右足部分が伸びた先の扉を開けると黒のトップスが半分裏返ったまま落ちていて、洗面台に立て掛けられた長刀の先、見慣れた斑模様の帽子だけがその特等席にまっすぐ引っかけられていた。
閉まりきっていないガラス戸のサッシから湯気がふわふわと漏れ出している。タイルをぴちゃんと叩く雫の音。人が動く気配もなく、シャワーの音もしない。風呂に入っているにしてはひどく静かだ。
誘われるようにそこを開くと、ローが猫足のバスタブの曲線に背中を沿わせて、上向いた顎と目線で文字の列を追っていた。
浴室はタイル壁の一番上が嵌め殺しの窓になっていて、そのすりガラスを通して幾重にも屈折した光が差している。顔に向かって差し込むそれを遮るようにして、ローは分厚い紙の綴りを両手で支えていた。
「紙は湿気に弱いんじゃねェのか」
指だけで挟むにはいささか重い書籍を取り上げれば、湯なのか汗なのかで潤んだ金の目が不満そうに細められてこちらを向く。
「あとで乾かす」
低い声が不服を述べるのに合わせて、細かい水滴の乗った顎髭が動く。湯が溜まっているとはいえ、少しの水でも容易に溺れてしまう体質を考慮してその量は極端に少ない。本を持っていた両の腕には鳥肌が立っていた。
「風呂に入るのか、本を読むのかどっちかにしやがれ馬鹿が」
「うるせェ俺に命令すんな」
これは出版部数の多い一般書だからいいんだとかブツブツ言いながら取り返そうと伸びてきた腕をつかんでやれば、力の入らなくなった手首から先がふにゃりと下がった。
心底あきれる。
何度口を酸っぱくして言っても、ローの生活態度は治らない。よく言えば生き急いでいるとかいえるのかもしれないが、悪く言えばただの貧乏性だ。とにかく一度に二つ以上のことをやらなければ気がすまない。たいていは本を読みながら何かをしていて、そしてその何かはおざなりに行われる。
だから服はあちこちで脱ぎっぱなしだし、何かを書き留めたペンや小さな紙はすぐに失くすのだ。おにぎりを食べれば中の具をこぼし、睡眠は十分に確保されない。目の下にはいつも隈が居座っているし、シャツのボタンはしょっちゅう掛け違えられて、とばされた穴の部分がぐしゃと不機嫌そうに歪んでいる。
小さな頭に信じられないほどの知識を溜め込んで屁理屈ばかりはよく捏ねる割に、ちっとも効率がよくなかった。
「冷えてんじゃねェか風邪ひくぞ」
医者のくせに。
閉じた本は浴室の外へ出し、コックをひねってシャワーの湯をかけてやる。腑抜けた腕を浴槽の淵に引っ掛けると、ローが静かに目を閉じた。ゆったりと開いた裸の胸に走るトライバルの線上を湯がつたっていく。女王様よろしく、されるがままの身体は、ひどくゆっくりした呼吸に合わせて上下する胸筋が目の毒だった。
こうやって甘やかすからいけない。
だがこうして自分と会っている時以外は、自艦で揃いのつなぎを着たクルーに隅々まで世話を焼かれているのだ。目の前で当たり前のようにさらされるしどけない姿に対して「自分のことは自分で」などと突き放して、せっかく得た好きに手をかけてもいい権利を放り出すのは癪だった。
「一緒に入んねェの」
一度閉じていた目蓋がゆるゆると開いて、潤んだ瞳がうっすらと姿をあらわす。細い線のような黄金に誘われて、つい今しがた呆れ果てたばかりなのに、自分の機嫌が上向いてくることに笑ってしまった。ずいぶんと絆されてしまったものだ。ネジやボルトや鉄板、屑まで、自分のまわりにいつでもあって、意のままに扱うことのできる馴染みの金属とは違う。ローのそれは金だ。柔らかく形を変えやすく、磁力になびかない高飛車。それが二つもあの眼窩にはめられている。時間帯や気温、また体調によっても色味と輝きの変わる眼球は啜って口の中で転がしておきたくなる。
沈黙に焦れた指が伸びてくる。死の文字が顔に触れる距離まで屈んでやると、濡れた親指が下唇の真ん中をぐっと押して、ほんの少し擦った。指の腹に巻く指紋の渦にはっきりとうつったルージュの真紅。
「俺から本を取り上げたんだ。ぐずぐずしてんじゃねェよ」
遮るものがなくなった光が照らす顔は明るい。朝もやの中を島に上陸して、まだ昼食も腹に入れていなかった。水蒸気を反射しながら降り注ぐ午前の光に、だらりと浅い湯に浸かったローの身体はまったく似合わない。
親指についた紅を見せつけるようにローの舌が舐める。同じくらい赤く濡れたものがうごめく様は、ひどく空腹を感じさせた。
キッドは顔を寄せてローの舌を吸った。塗りつけた口紅を取り返すようにべろりと広い面を擦りつけて、根本まで食んでじゅるりと吸い上げる。ローの鼻から甘い湯気が抜けた。
機嫌よく盛ろうとするのを、頬を撫で、髪を梳いてなだめ、脱衣所に引き返して化粧を落とす。宿のアメニティが詰まった籠からコットンを取り、オイルのクレンジングをたっぷり含ませて真ん中の色が抜けた唇を拭う。ほとんど赤で埋まったものを捨て、もう1枚手にして、普段通りの手順で落としきった。
ところどころ濡れてしまった服を脱ぐ。ベッドルームからハンガーを取ってきてかけておく。さっき拾ったローの服は四角く折って重ねた。機械や工具をいじるときにそばに置くウエスの要領で整然と洗面台に置く。
化粧水や乳液と並んで入っていた少し大きいパウチをつまんで再び浴室へ。
さっき落ち着かせたはずの猫はすでに飽きた様子で大きな欠伸をしていた。眠気でとろんと緩んだ目の前でパウチを揺らす。中身を垂らすと、粘度の高い入浴剤が冷めた湯の中に溶けた。へェ、と興味深そうに眺めたローが長い足で雑に混ぜる。ピンクがかった乳色の湯が出来上がった。とうてい火傷などできそうもない、ぬるいミルクの中に、再び猫が全身を伸ばす。
熱めの湯を蛇口から細く注ぎ足しながら、ローに覆いかぶさるようにバスタブへ侵入した。色だけでなくとろみも付いた湯がまとわりつく。これなら多少は冷めにくいかもしれない。長い腕に首を絡めとられながらローの下腹に跨ると、タトゥーが半分隠れるほどまで嵩を増した湯にますます力が抜けたのか、薄い唇が長い息を吐いた。
「重い」
ひそめられた眉を親指で解してやりながら、くくく、と漏れる笑みが止まらない。機嫌の乱高下もだらしなさも、全部が自分に向けられた甘えだとわかっていて至極気分がいい。死の外科医なんて呼ばれ世間では気味悪がられているこの男が、外面を捨ててだらけきった姿を見せるこの時間が、キッドは気に入っていた。
「てめェより筋肉ついてっからな」
「…っクソ…ぅあっ」
決して恵まれていないわけではないが、キッドと比べるとまったく質量の違う体格のことをローは気にしている。揶揄されて深くなった眉間の皺を撫でたまま、下腹に乗せた睾丸でぐりと抉るようにそこを押してやると漏れた悪態が甘く変わった。
「わりぃな、重くてよ」
「あっ、ひ、押、すなそこっ……んんっ」
「まだ何もしてねェよ」
ローが騎乗位で腰をまわすときの動きを真似て、増してきた玉の重みを腹に押し付ける。さっき一度キスを交わしたただけで、他にどこも触っていないのに、臍下を陰嚢がごろごろと転がっただけで、胎内が疼いているようだった。信じられないといった顔で自分の腹を凝視している瞳は明らかに輝いていて、精巣にたっぷり蓄えられた種がそのうち中に注がれるのを、期待している。
よく出来上がった身体だ。
繰り返し体重をかけながら撫でまわすと皮膚がピクピク震える。ローのペニスはとっくに硬くなっていて、しかしキッドが乗っているために上を向くことができず、ぐ、ぐ、と時折苦しそうに蠢いている。素直な反応がおもしろく、熱が溜まってますます張ってきた袋をなお擦りつけてやる。無意識なのか、玉が転がるのにあわせるようにローの腰が動き始めている。キッドも、敏感なやわい丸が優しくぶつかり合ったり、袋がローの下生えに時々ひっかかったりするのが気持ちよかった。
しばらくそうやってじゃれているうちに物足りなくなったローが頭を持ち上げて鎖骨にぐりぐりと懐いた。
「早く何かしろ馬鹿」
「そのうち腹押さえるだけでイケるんじゃねェか?」
「んな、ことあって、たまるかっ……」
胸元にかかるローの息は熱い。冷えていた腕はすっかり血流がよくなったようであたたかく、幾分か健康的になった肌色に満足感が湧いてキッドは蛇口を閉めた。
機嫌を損なう前にと、背中に腕を回して身体を抱き込むように、そのままくるりと体勢を変え、ローを自分の上に乗せる。背中がざぶんと沈んで、今度は自分が深く湯に包まれることになり、底へ底へと引きずられるような感覚が少しの不快感を生んだ。
自分の上に影をつくったローを見上げると、明り取りから注ぐ光で逆行になっていた。好きにあちこちを向く毛先を縁取って、陽が零れてくる。高いところから背に陽を受けた裸体に描かれた刺青が美しい。暗く翳った顔面で、続きを催促するやわい金色。
下腹の上の薄い尻の下へ手を忍ばせる。湯にとろみがあるのをいいことに指で穴の入り口をくるくると撫でると、肩がぴくぴく震える。
特に連れ込み宿ではなかったとはずだが、ずいぶんと気の利いた入浴剤だ。ありがたく使わせてもらうことにして、湯ごと押し込むように指を入れた。
「っん、ふ、ふっ」
いつも通りただ洗っただけのそこは、硬くはないがまだやわらかくもない。ぎゅうと押し返してくる肉壁を割りながら、ゆっくりと指を潜らせる。
こういうことをするようになって一度、準備しておこうか、と言われたことがある。日常、まわりの人間に手間をかけさせるのが当たり前のローにしては、らしくない提案だった。
もちろん断った。
自分のモノが入るようになるまで自分で手間暇かけたいからに決まっている。
ローはそれで納得したらしい。面倒なことをなるべく避けたいという思いもあるのだろう、それきりそういうことは言ってこないし、洗浄だけ自分でして、準備はしてこない。
小ぶりな臀部を開きながら中の指をゆるゆると動かす。ちゃぷちゃぷと水面が音を立てているのに、肝心の秘所は白で隠されて見えず、それがなんともいやらしい。
ローは楽に呼吸できるようにと顔を上げ、浮力を借りて尻を浮かせている。耳にかかる息の感じや、漏れる声を手掛かりに、キッドはその奥を拓いていった。
「うっ、あ、ん、ん、んん、ん……」
大きな快感を引き出す前立腺にはまだ触らず、まずはやわらかくすることを目的に指を動かしていれば、そろそろもう1本、という具合になったところでふと、ローの吐息が単調になってしまった。
一度抜いて、2本まとめて挿れてみる。壁を拡げながら奥へ侵入していくのにあわせて、くぐもった声が聞こえるものの、さっき下腹を外側から押して遊んだときほどの熱感がない。
自分の顔の真横にあって表情が見えなかったローの方へと首をひねってみると、いつの間に拾ったのか、さっき空にしたパウチの裏面を熱心に目で追っている。
「てめ」
「んあ?」
「こっちに集中しやがれ」
「ふっぁあっ、あんっ」
成分を読んでいたのだろう、医者として興味がわいたのか、豆粒より小さな文字をなぞる金の目線に、むかむかと苛立ちが生まれてくる。
あえて避けていた弱いところを2本の指でぎゅっとつまむようにしてやると、ローは色の乗った声を上げて腰を反らせた。意識はこちらへ戻ったようだが、それでもまだパウチを手放さないので、しつこくそこばかりを擦り上げる。
「あっ、ぁあぁっ……ひ、そこ、きもちいっ」
「セックスの途中でほかのことしてんじゃねェよ」
「てめ、ぇの、指がぬる、い、んだよっ、ひあっ、ああっ」
甘い声で吐き出された可愛げのない言葉に今度こそ腹を立て、さらに指を増やして前立腺を嬲った。ぎゅうと瞑った目とは反対にぱかりと開いた口から甘ったるい音がほろほろ零れる。びくり、びくりと腰が跳ね、大腿が心許なく揺れる。力が入らなくなったローはパウチを取り落とし、両腕できつくキッドの首にすがった。高く啼きながら首筋にちゅ、ちゅ、と吸い付いて媚びる。ローはぷくりと立った乳首をもぞもぞとキッドの胸に擦りつけながら、濃紅色の指先を食んでいる腸壁をきゅうと締め付けた。
「はじめからそうしときゃァいんだよ」
「んあぁ、ひ、いい、いい、ゆーすた、イきそ」
あっという間に湯よりも温度の上がった胎内はほどけてうねるように動き、キッドの指を咀嚼している。目を開けたローは、涙を溜めて溶けた黄金でキッドの目を覗き込みながら絶頂が近いことを訴えた。気に入りの色を至近距離で独占してすっかり怒りの収まったキッドは、親指をローの下腹に当てる。何度か表皮をさすって、中の指とで泣き所を挟むように強くめり込ませた。
「ぅっ、は、ぁあああっ」
ジョリーロジャーが笑う背中が弓のように反って硬直する。湯の色のせいでわかりにくかったが、どうやら吐精したようだった。
指を引き抜き、先ほどの苛立ちを形にしたような剛直を尻の割れ目にくっつける。まって、と制止する言葉とは裏腹に、味見するようにちゅう、と先っぽに吸い付く後ろ口。自分で誘って煽ったくせに待ったはなしだ。今はバラバラの頭と身体は、快楽にさらされ続けるうちにだんだん思考の方が肉体に寄っていって双方の意見が一致する。何度も身体を重ねたキッドはそれを知っている。おとなしく待つつもりなんかない。
肩口でいやいやと左右に振る頭に頬を擦り寄せて、張り出した腰骨を両手でつかむ。衝撃を予測してひゅ、とローが息を飲んだのを横目に見ながら、くびれた腰をいきり立ったものへ力強く引き寄せた。
「っあっ、ぁああぁっ」
「……ぐ、ぅっ……」
熱々のひだに包まれ、ペニスが絞られる。思わず息を詰めた。一息に深いところまで埋めた下半身がびりびり痺れる。どぷんと跳ねた湯が首の後ろに沁みた。猫の爪が食い込んでいた。
閉じない口から、は、は、と息を吐きながら涎を垂らすローの背をゆっくりさする。頬にあたっていたピアスを前歯で揺らし、耳の裏を舐める。やめて、が言葉になる前に二連のフープごと耳たぶを口に含んで唾液をまぶした。中で馴染むまで待っていた屹立がぎゅんと奥に引き込まれる。はやく、はやくと急かすように小さな収縮をくり返す内壁。たまらない。二人して乳白色の湯に溶け出しそうだ。
美味そうに男のものを咥え込んで、いっぱいまで広がった後孔を指でなぞる。触れた胸がぎくりと揺れて一段と高い声が聞こえたら、もうそれ以上はじっとしていられない。つかんだままの腰を動かした。ばちゃんばちゃんと陶器の縁から湯が零れてタイルの床を濡らす。真水の貴重な船の上でこんなことはできないから、これは陸にいるときだけの贅沢。奥歯を噛みしめながら、波立つ音にかぶせるように腰を突き込んだ。
「やっ、あ、ふか、あんっ、まって、熱、い」
「のぼせんじゃねェぞ」
「う、勝手なこと言うなっ……んっ、ゆっく、り、あーっ」
「ぬるいことしてると拗ねられるからな」
むせ返る湿気と肌の熱さがぐんぐん互いを追い上げる。水位の低いぬるま湯に、申し訳程度につかって冷えていた身体が噓のようだ。入浴剤の色と質感と、ずぶ濡れの適度なだるさ、響く水の音と艶めいた声。そもそも始めから、こういう目的でここに来ている。ゆっくりしてほしいなんて台詞はわずかに残った理性から出る建前で、性感を求める身体はとっくに降参していた。下生えに押し付けられるローの重みには意図が乗っている。
恐ろしい速度でめぐる血液でさらに膨らむ陰茎に、腸壁が悦びで震える。前立腺をつぶしながら擦り上げて、奥の行き止まりに鈴口でキスをする。ローの両腕に力が入って気道が圧迫されると、のぼせてしまいそうなのはこっちだった。酸素が不足すると頭も煮える。いい加減なところで一度終いにしないとどちらかが倒れそうだ。
「だめ、おく、だめっ」
「まだやらねェよ。そっちは後でな」
つつかれて結腸口がゆるんだことに怯えて、ローの腰が引ける。がっちりと掴み直して今はしないことを伝えると、安心したのか上下に揺する身体の動きが大胆になった。耳下を小さく吸ってやると意図をくみ取った顔がこちらを向く。口紅のついてない唇からうつる色はもうないが、そんなものなくともお互いのそこは赤かった。舌を出して絡める。開いた唇を塞いで食む。酸素が口内だけで行き来して、ぶくぶくと脳が沸いた。達するときの歪んだ顔が見たくて瞼を持ち上げると、近すぎてぼやけたゴールドで視界が埋まる。ローの中はペニスを食いちぎる勢いで何度も締まっている。奥に出したものが零れてくる様を想像してみたが、そういえば垂れた端から湯にまぎれてしまうんだった。分け入った先で吐いた精液も、自分の腹にまき散らかされたかもしれないローのそれも、全部混ざって同じ色。
***********
目の前に突き付けられたつま先に、透ける生地の靴下を履かせていく。疲れた、膝が痛い、指の一本も動かねぇ、と不平不満をたらたら述べるローの要求を片っ端からこなす。さらさらのシーツに仰向けで転がるバスローブ、二つ重ねた枕に預けた小さな頭。水を飲ませろ、パンツを履かせろ、口だけは忙しく動いているが声は掠れている。ひとつ言い付けられるたび、キッドはいちいち頭を撫で、額にキスを落として、まだ素足の方の親指の爪を舐めた。水差し、グラス、絞ったタオル、着替え、毛布……必要そうなものはすぐ届くところに乱れなく並べてある。
ふん、と鼻を鳴らす顔は、さっき途中でやめさせた物語の続きを追う。すっかりローの関心を取り返した表紙は誇らしげにツヤツヤとしているが、別にそんなことは気に留まらない。履かせてしまう前にと、たくった靴下を手にしたまま、人差し指、中指、とそんなところまで見目の良い足先にキッドが口付けていると、まだ残るページの厚みの下から両の金眼がこちらを睨んだ。しつこい、気が散る、と口を尖らせるから、薬指に歯を立てる。
「いってぇ!」
「なァ、そろそろ飯食いに行こうぜ」
「いやだ腹減ってねぇ」
言ったそばから主人を裏切る腹の虫。思わず声を上げて笑いそうになったがここでヘソを曲げられては手をかけた全てが水の泡。ぐっとこらえると、喉の奥で可笑しな音が鳴った。
風呂を出てからも飽きずに抱き合ったから陽はとうの昔に真上を過ぎている。普段なら食より読書、ローは一食くらいならとばしてしまうかもしれない。目に入らない時の生活までとやかく言うつもりもないし、健康管理なぞ本人の好きにやればいいと思っているが、一緒にいるとなれば話は別だ。本の続きよりは自分と食べる飯を優先してもらう。そのくらいには好かれていると自惚れている。
ローは自信に満ちたキッドの顔をしばらく見つめて、何とも言えない形に口を曲げた。
「腰がいてぇ出たくねぇルームサービスにしろ」
今度は吹き出すのを我慢できなかった。ひとしきり笑ったあと、ばつの悪そうな眉に何度もキスを送った。腰が痛いのも動きたくないほどに楽しんだのも自分だ。街を歩くのは好きだがこの出不精と部屋でだらけるのも同じくらいには。
出かけるつもりで履かせた靴下はまた脱がせてしまうことにして、水差しの隣に置いておいた栞を差し出した。薄く伸ばした金属に不恰好なクマが切り抜かれたそれはキッドの手製だ。加工は完璧だが絵は得意じゃなかった。それでも案外、ローが愛着を持っていることを知っている。
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