一度零れ始めると止まらなかった。ごめんねとありがとうがとろりと耳から流れ込んで、じわじわと頭の中へ広がっていく。なんで急にそんなことを言われているのか、流れ落ちる涙をすくっているのは何なのか、冷静に考えることはあるはずなのに、すべて目の淵に溜まってあふれていった。
滲む制服姿に、はたと気がつく。そうか、弟とランドセルだけを抱えて電車に乗ったあの日の自分と、同じ年になっているのか。
頬を包んでいる両手がほとんど同じ大きさになってきているのだと思うと、心臓がぎゅうと悲鳴をあげた。
母は早くに死んでしまって、生活能力のない、クズみたいな親父と荒れた生活を送っていた。思春期に足をつっこみかけた頃に、どこに隠していたのか「弟」を連れて帰ってきて、突然、俺は兄になった。
年が八つも違えば遊び方も合わないし、口数の少ない弟は何を考えているのかよくわからなくて、最初はどう接していいのかわからなかった。
親父が使い物にならないから、役所の人間だという大人に手伝ってもらいながら、毎日保育園の送り迎えをした。はじめは恥ずかしかったそれも続けるうちに慣れて、よくわからない草を集めながら帰ったり、線路脇で行きすぎる電車を何本も眺めたり、だんだん心地よい時間になっていった。
まだ自分も十分すぎるほど子どもだったのにそれが嫌にならなかったのは、友だちもいなくて他にすることがなかったのと、俺がこいつをまともに育てなければという一人前ぶった使命感からだった。
当時すでに学校の勉強にはついていけてなくて、まずいとは思っていたものの、どうしていいのかわからなかった。未来に対する漠然とした不安がそういうものを生んだのだと思う。
手を貸してくれようとする大人も少しはいた。そういう人のはからいで、一時的に施設に入ったこともある。だけど、二次性徴にともなっておもしろいようにするする伸びていく手足が、たぶんよくなかった。髪や目の色も変に目立っていたせいで、あっという間に悪い大人に目をつけられた。
教えてくれる人がいなかったせいで、まだほとんどそういった知識もなく、わけのわからないまま俺は簡単に踏みにじられた。ぐしゃぐしゃのお札を汚れた手に握らされた時、自分の体が売り物になることを知った。
今思えば、そんな大人がいる施設の方が少ないはずで、たまたまめぐり合わせが悪かっただけなのだが、大人は助けてくれないという思いだけが強く残った。
中学の3年間は地獄だった。給食がなくなったのに、バイトもできないから、とにかく腹が減っていた。親父の財布から時々金を抜いてはバレて殴られた。家にいたくなくても、弟の送迎があったし、夜中にうろつくと補導されるから帰るしかなかった。
弟がやっと小学生になってひとりで家に帰ってこられるようになってから、自分の体で金を得るようになった。
夕方寂しそうな顔をして駅の近くに立っているだけで、ろくでもない大人がすぐに釣れた。若すぎてかなり買いたたかれたが、たまにお金を使ってくれる人がいて、美味しいものを食べさせてもらえることもあった。ふかふかのベッドがあるホテルに泊まってもいいと言われたりもしたけど、スーパーの3割引き弁当を食べながらひとり宿題をする弟の姿が頭に浮かんで、断って帰った。
ぼろぼろの体で家に着くと、弟が抱きしめてくれて、頬にちゅーをくれた。保育園で覚えてきたらしいそれを、小学生になっても続けてくれた。他の人にはわからないようだったけど、顔つきがやわらかくなるのが愛おしかった。
高校生になると友だちができた。元々恵まれていた容姿に加えて、驚くほど伸びた身長のおかげで次から次へと女の子が寄ってきた。その中には、同じようにどうしようもない生活をしてきた子も何人かいて、俺が小学生の弟の面倒をみていると言うと同情してお菓子や文房具を買ってくれた。
少しまともなバイトができるようになったけど、かわりに学費を払わねばならなくなったので身を売る仕事はやめられなかった。
夜は脂くさい大人の相手をして、昼は授業をさぼって空き教室で女の子と遊んだ。弟の前でしっかりした顔をしていなければという重圧に潰されてしまわないよう、そうやってバランスを取っていたのかもしれない。
年相応にクズらしく、そこそこ楽しく生活できたのはこの頃だった。
そしてあの日。
高校3年生になって2ヶ月ほどすぎ、そろそろ梅雨入りを感じさせるじめじめした空気に、足を取られそうな日だった。
金がなくなってどこにも行けない時か、サンドバッグがわりの俺を殴る時ぐらいしか家に寄り付かなくなっていたくそ親父が家に帰っていた。借金の利息だけでも払わなければならないからと、あろうことか弟を使って金を作ろうとした。ゴミみたいな人間のまわりには同じようなゴミが集まる。だいぶガタイのよくなった俺と違ってまだ子どもの体だった弟を、知り合いに売るつもりだったらしい。
バイト前に着替えを取りに寄ったら、親父が弟をひきずって出かけようとしていたところへ鉢合わせた。
弟も帰ったばかりだったようでまだランドセルを背負ったまま、その肩ベルトを力ずくで握る親父の手。左の頬に殴られた跡が見えた。
そこから先はよく覚えていない。
後悔したのは、弟の目の前でやってしまったということ。右手に肉と骨の感触が数日残るくらいには殴った。血まみれの親父をそのままにして、床のランドセルを拾い上げ、呆然としている弟の手を引っ張って走った。弟はなにも言わなかった。怖かったのかもしれない。
息が続かなくなるまで走って、駅のハンバーガー屋に飛び込んだ。弟がポテトを食べている間に泊めてくれそうな子に連絡をいれて、満腹と疲労とショックで船をこぎ始めた弟を抱き上げ電車に乗った。行く先に絶望しか見えなかったあの日、急遽休んだにも関わらず、バイト先の店長がなにも事情を聞かずに「出勤できるようになったら連絡ください」と言ってくれたことだけが救いだった。
高校を卒業するまでは人生で一番大変な1年だったと言ってもいい。
決まった帰る場所がないというのは思いの外ダメージが大きくて、どれだけ親切にされても落ち着かなかった。昔からどうせ家なんてと思っていたのに、自分がどれだけ子どもかということを嫌というほど思い知らされた。
親父の逆恨みがこわくて、なるべく弟と一緒に過ごした。放課後はバックヤードで宿題をしながらバイトが終わるまで待たせてもらった。
夜仕事をする時は、女友達に頼んだり、ネカフェで待たせてなるべく短時間で切り上げた。どんな状況にあっても、弟はわがままひとつ言わなかった。それどころか、戻ったときには変わらぬ顔で頬にキスをくれた。いつもいつも、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
待ちに待った卒業を経て、仕事は変わらず飲食店のバイトと夜の身売りだったけど、店長が保証人を買ってでてくれて、小さな小さな部屋を借りた。2人なら十分だった。根城ができると精神的にもだいぶ落ち着いた。
悲惨な環境だったのに、弟は成績も素行もよく、順調に大きくなった。
まともというものが何なのか、人格形成に重要な幼児期から環境がおかしかったせいでわからなかった俺とは違う。弟はちゃんとした大人になれそうに見えた。
この無茶苦茶な人生の中でそれだけが守りたかったことで、弟が大学進学も目指せる高校に入った時、少しだけそれが達成された気がしてやっと生きている意味を見いだすことができた。
頬を流れる涙を弟は何度もすすった。
こんな風に、自分の意思と関係なく次から次へとこぼれて落ちていくような泣き方をしたのは、もしかしたら初めてかもしれない。止め方がわからなくて呆然とする。
弟が口を寄せてきて、いつものように頬にくっつけられるのかと思ったら、重ねられたのは唇。柔らかくて薄い皮膚の感触。10代の、水を含んだ弾力がぎゅっと押し付けられる。驚いたけど引き剥がせなくて、じっとその温かさを受け止めてしまった。
「バイト決めてきた。」
離した唇で鼻に、頬に、顎に触れながら弟が言う。
「え、なんで。」
「一緒にやっていきたくて。」
今まで兄さんひとりに全部背負ってもらったから。
何を言われているのかよくわからない。それに今年は受験生、大事な年のはずで、バイトなぞ今決めてしまってどうするのだろう。
「お前、勉強とか…」
「もちろんする。受験も。だから、あの仕事をやめてほしい。」
ざあっと血の気が引いた。さすがに、そろそろばれてもおかしくはなかったが、こんなに直接言われると体が震えた。
「お前は何も気にしなくていいから。」
やっとのことでそう言うと、弟は首を横に振った。
「そうじゃなくて。兄さんの体を、兄さんに返してあげてほしい。」
誰の好き勝手にされることなく。
もうずっと長いこと、いつも誰かのものにされてきた。自分で選んでやってきたこと。後悔はないし、すっかりそれに慣れてしまって、違和感はもう感じない。
なのにそのたった一言で、これまで重ねてきた夜のひとつひとつが頭の中をめぐって、息ができなくなった。
喉元を押さえて呼吸が早くなっていく俺の頭を弟がぎゅっと抱いてくれる。気持ちが追いつかなくて、ただぼろぼろと目から落ちるものを、何度も何度も弟の指がすくった。
どっちが兄なんだかわからないと思いながら目をとじると、あの、砂まみれの手の平にお札を押し込まれた日の自分が泣いているように見えた。
「兄さん。」
上を向かされる。声とともにまた唇が降ってきて、息を吹き込んでくれるみたいに口をつけられた。弟の口内から酸素をもらおうと魚みたいにぱくぱくしていると、濡れたあたたかなものが入ってきて舌を絡め取られた。そうしたら急に鼻の奥が切なくなって、夢中で弟の舌を吸った。
違う。こんな風にしたいわけじゃないのに。
口の中をどろどろに溶かされて、気づけばさっきまでうたた寝していた布団に倒されていた。
Tシャツの裾をつかんでゆっくり持ち上げられる。
「なにやっ……あっ」
胸筋のてっぺん、まだ昨夜の名残で赤く腫れているところに吸い付かれた。昨日の相手はずいぶん付き合いの長いお客で、あんまり無体を強いたりしないが、胸のまわりを噛むくせがあった。いま弟が食んでいるところには噛みあとがついているはず。見られている、顔が熱い。
「痛い?」
おかしな顔をしていたと思う。弟が不安そうな目をした。
頼むからそんなに優しく聞かないでほしい。10年にわたってそれを生業にしてきた体は、弟が思っているよりずっと淫乱だ。したいとか、したくないとかじゃなく、あっという間に気持ちよさを拾うためのアンテナが立つようになっている。
「い、たくない…けど。」
「兄さんが嫌ならやめる。」
初めてだから加減がわからなくてごめんね、とわざとなのか天然なのか首をかしげた恐ろしい生き物は、大事に大事に育ててきた可愛い弟で。どうしてこうなるのか全くわからなかったけど、頭も体もじわじわと喜んでいるのを自覚してしまった。
「嫌じゃないなら、半分持たせて。これまで背負ってきた分も。」
「なんっ…だよそれっ…こうこ、うせいが言うせりふじゃねぇっ…。」
嫌ならやめるとか言っておいて、返事もしていないのに弟はずっと胸の尖りを口に含んでいる。全然抵抗できる気がしない。
「ありがとう、兄さん。」
滅多にないくらい穏やかに笑った顔を向けられて、心臓が爆発しそうに膨らんで、もうだめだった。
腕をまわして弟の頭を胸に押し付けるようにして抱き込む。弟は歯を立てないように優しく、とっくに性器になってしまっている突起を舐めまわした。むずがゆい気持ちよさと背徳感でどうにかなりそうだ。
初めてだとか言ったくせに空いた手が前と後ろを撫でる。いとも簡単に服も下着も取られてしまって、未経験ゆえ真っ直ぐに暴こうとしてくる指を後ろに受け入れた。今週はすでに3日も連続で仕事をしたから、後ろはゆるんだままだ。
自分と似た長い指でバターでも溶かすみたいに中をかき回されて、情けないくらい泣いた。
弟の服も脱がしてやると、自分のと同じか、少し大きいくらいのものが顔をのぞかせた。俺の可愛い弟のそこだけがグロテスクで、見ただけで期待してしまう自分の体があさましかった。顔に出ていたみたいで、そんなことは思わなくていいと咎められ、余計なことを考える間もないくらい何度も指で中をふやかされた。
切羽詰まった声で兄さん、兄さん、と呼ばれながら中に入られて、揺すられて、ただただ泣きながらすがりついて。
お金をもらうためか、虚しさを埋め合うためか、そういった性行為しかしてこなかった俺は、腹の中も頭の中も全部甘やかされるようなセックスがあることを知った。
まともな大人とはなんだろう。
昨日まで張り詰めていたものがばらばらに壊れていくのを感じながら、兄とセックスさせてしまって申し訳ない、とまた余計な言葉が浮かぶ。だけどきっと、そんなことは大したことじゃないよ、と笑ってくれるだろうから、ランドセルと一緒に背負った重みを、大きくなった手に半分ゆだねてしまおうと思った。
通して読むとまたヒュワワワ
1番最初のわんしーんのお兄が背負った重さだとか、弟の生活を維持する為の思考だとかが改めて突き刺さります 涙 タイトルも大好き!
ありがとうございますーっ!!
タイトルなかっなか決まらなくて…結構悩んだので嬉しいです!!
今度幸せなえちだけのその後編とか書いてみたいです(^-^)