ブルスカらくがき詰め - 3/3

親しい者どうしの特別な雰囲気になる日もくるかもしれない。そう予感したことはある。こんなに早いとは思っていなかっただけで。
「先生」
自分の方が上背があるくせ、下から伺うような姿勢でそういう空気を醸したのは、この男がsubだからだろうか。
両手はまだ読みかけの本を握ったままで、もうページはめくれない。さっきまでスポーツ欄で塞いでいたはずの両手で、スモーカーはローを囲うように、にじり寄っていた。
ふと、同級生のことを思い出す。試しに、と学生時代に付き合った彼女は前髪で表情を少しだけ隠し、緊張と期待をにじませて、かすかな興奮で互いの距離を埋めようとした。
こんなにおとなでも同じ空気をまとうのか。
嫌悪感や冷めた心地になることなく、これを新鮮だなと眺められるのは、相手がスモーカーだからかもしれない。
「先生、」
呆けた意識を呼び戻される。こういうとき、どうするのが作法なのかがわからない。プレイなら、まず目を合わせるのだが。スモーカーの襟ぐりをうろうろと眺めると、「キスをしてもいいか」と聞かれた。
一方的だった緊張がこちらにも生まれ、閉じ込められた文庫本に手汗がしみる。
「いい」
言葉にしたつもりだったものは、いびつな息に。かわりに、置きどころに困った目線をごまかすためにも頷いた。
目をつむった方がいいだろうか。二度続いてまばたきが起こって、続いてゆっくりとまぶたが閉じる。だが訪れない、なにも。待ち時間はどのくらいだろう、本を閉じるタイミングは。ひとつもわからない不安から、うっすらと目を開けると、スモーカーの赤い光線が待ち構えていた。
「命じてくれ」
刺さる。subの懇願。眼球が燃えている。とたんにdom性が総毛立つ。あわてて首を横に振る。
「こ、こういうプレイは」
「プレイじゃねぇ。キスがしたい。承諾がほしい。だから命じてくれ」
そんなコマンドは使ったことがなかった。仕事か、幼馴染みとの行動療法では。
戸惑う頭とは別物のように、拍動が踊っている。命じてくれと差し出されて、喜びに湧かないdomなどいない。そうして気がつく。ソファに乗り上げたスモーカーが、膝をついたあのかたちだと。コマンドでは嫌がるくせ、自ら願うときにはその姿勢を取るのだと。
「コマンドはっ……命令じゃねぇ」
苦し紛れの台詞だ。だって断ることができない。
「ああ、そうだった、悪かった、先生。プレイはコミュニケーションだったな。おれぁ、許可をもらいてぇんだ」
いつか自分がした説明に逃げ場を奪われている気がしてならない。だめか、と念押しされる。だめじゃない。嫌か、とお伺いを立てられる。嫌じゃない。どっちが? コマンドが? キスが?
本を閉じる隙間はなくなっている。呼吸の中にまじる煙草を嗅いだのがずいぶん久しぶりだと思うのは、隣にいる時間が増えるうち、慣れてしまったからかもしれない。たぶん、その先は苦い。
「先生」
「その、先生って、やめねぇか」
プレイではないとこの男は言った。行動療法でもない、プライベートプレイでもない、そうなのだとしたら、こちらにも、そのコマンドを口にする許可が必要だ。
「なんて呼ぶんだ」
「なんでもいい」
「じゃあ、短ぇから。ロー。これでいいか?ロー」
目をそらしておけばよかった。びりびりと鼓膜を震わす音にdomの血が沸く。そんな簡単に許すんじゃねぇ。
悪態ならいくらでもつける。もう断ることはできない。subの希望を叶えられないと互いのホルモンに作用する。
「ロー、コマンドをくれ。キスを、してもいいか」
こちらが脳内で理屈に沿った言い訳をしているというのに。スモーカーは顎先がふれる触れるかというほどに顔を寄せてきた。肌の温度が伝わるくらいに。ふやけたページはずっと不自然な形に残るのだろう。綴じた紙に挟まれる波打ちを目にするたび、この高揚と発熱を思い出す。
根気よく待つ目はずっとローを見ていた。最初にコマンドで合わせたときから、それを請うときには目を離さない。
そう教えたのはローだ。誠実なsubの姿に白旗をあげるしかない。なにより、その苦味を味わってみたかった。
「“kiss” スモーカー」
呼吸を合わせずコマンドを出したのは初めてだ。うまく出せたかもわからない。震える唇に、他人の厚みが触れる。ばく、と心臓が飛び上がる。目を閉じるタイミングがはかれないうちに、それは離れ、もう一度やって来た。乾いた皮膚がかさりと音を立てて、また離れる。そしてもう一度。スモーカーの呼吸が直に鼻腔に届く。ハイライトというのだと。
離れた唇がまたついてしまいそうな距離で、スモーカーは大きな息を吐いた。額が汗ばんで、頬が紅潮していた。全部見えている。目を開けたままだった。
「したぞ」
「……した、な」
「そうじゃねぇ」
言うなり、スモーカーはまた唇に唇をつけ、離し、そして顎を擦り合わせた。髭がじゃれる。ローはようやく気がついた。
「ぐ、っど?」
「もう一度」
「“good”」
大きな、大きな、ため息がおりた。緊張はずっと続いていたらしい。ここまでの間に経験してきたものより、もっと澄んでいて、しおらしい緊張が。
「嫌じゃねぇか」
「言わせておいてそれを聞くのか? むしろ、あんたの方が、こういうことは好かねぇのかと」
「大丈夫だ、先生はおれをしつけない」
「だから先生っていうの、やめてくれ」
「すまん、ロー。嫌じゃねぇなら、もう一度」
上がった顔の温度は下がらない。互いの第二性があたたかい濁流となって血液に乗っている。
(Sub×Domのスモロ)

 

疲れきった体とともに投げ出したスマートフォンがふと明るくなる。ロック画面には天気予報と並んで、着信があったことを示す窓があった。ごろりと横を向いてロックをはずす。履歴を開けば、半日前に今日は予定をこなせない旨を伝えた相手の名前があった。ドロップした急患の処置が続いた当直後で、到底まともなプレイができる気などしないからまた連絡する、と一方的にメッセージを送り付けたのだった。それから、昼、夕方、と律儀に着信のあった時間が刻まれている。
スモーカーのSub性はこのところ上手くコントロールできていたと記憶している。
なにか不都合が起こっただろうか。深く考える気力もないまま、その名前をタップした。コールの間に電話口でもやり取りができそうなコマンドをいくつか思い浮かべる。こちらは定期内服に加え頓服も飲んでいる。少しのことなら対応できるだろう。
電話を取ったスモーカーは「仕事は終わったのか」と言った。
「そうだ。いましがた帰ったところだ。折り返しが遅くなってすまない、なにか、あったか?」
声色や背後の音に注意しても、対面ほど相手のことはわからない。
わずかな沈黙のうちに、おのずと緊張感が高まる。部屋に響く秒針の音を聞きながら、反対の耳から入る呼吸を数える。
「……今日予定していたことだが」
メッセージひとつで断ったことはやはりよくなかっただろうか。今日は業務の後でコマンドコミュニケーションを交わす日になっていた。だがこれまでにも予定の変更はあった。互いに大人だ。いつも思惑どおりとはいかない。
ローは真っ先にすまないと口走りそうになるのを堪え、耳をすませる。
「おれぁ診察じゃねぇと捉えてる」
意図が見えず、思わず呼吸を止めた。長く吐いても短く吐いてもしっくりこない。スモーカーだってこちらのことを伺っている。
診察ではないプレイを交わすようになってから、互いの自宅でコマンドを使うことにはだいぶ慣れた。もうプライベートですることは二度とないかもしれないとまで思っていたのに。
「そうだな。院外でするものは診療とは別だ」
「それなら、先生」
スモーカーは一度言葉を切った。
「今日みてぇな時は、予定どおりがいいんじゃねえのか」
今日みたいな日?
日当直で、しかもドロップした患者を診た日に。
コントロールの行き届いたコマンドを発せられる自信がなかったからまたの機会にとそう送った。息の合わないプレイはやらない方がましなほどだ。プライベートにおいては特に。
「先生が悪いときにもやればいい」
コミュニケーションとは相互作用である。スモーカーに教えたのはローだ。双方が、良い方向に向かいたいという心持ちで臨めば、DomのホルモンもSubのホルモンも安定化する。
「おれが先生のコマンドを宥めることだって、できるんじゃねぇのか」
Subの方も寄り添うべきだと、スモーカーにそう言われているのだと、ようやく気がついた。
信じられない思いで何度も瞬きをする。院外のそれはプライベートプレイだと言い切ったのは自分だというのに、スモーカーの性を整えることばかり考えていた。自分のDom性が危ういときに、こちらが頼ることがあってもいいのだと、電話の向こうから迫られている。
頓服の効果よりずっと速く、あたたかいものが巡り始める。コマンドも、それに伴う行動もいまだなにひとつ行っていないのに。
「そうだ、あんたの言う通りだ、スモーカー」
ローは大きく息を吐いた。大丈夫、悪いようにはならない。そう安堵できる関係性を互いで育ててこられたのだと思い至る。
ローがスモーカーの調子を気にかけるのと同じように、自分も気遣われている。
「予定どおりでいいか、先生」
もちろん異論などなかった。スモーカーははじめからそのつもりで、近くまで来ていたらしい。ローは天井を仰いだ。胸部が開いて息がスムーズに入る。すぐに訪ねるからコマンドをと言った受話口に、望まれている言葉を吹き込んだ。寄り道なしでまっすぐ歩く力強い足音が、まだ遠いアスファルトを鳴らすのが聞こえる。
(Sub×Domのスモロ)

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