兄の同級生 - 2/2

歯磨きを終えて洗面所から出ると、窓から差す朝日に透けて銀にもプラチナにも見える髪が、不格好にはねたまま停止していた。朝食は食べ終わったようだが、空になった皿もそのままに、兄はどこかを見つめてぼんやりしている。
出てきたばかりの洗面所に戻り、ブラシと黒い猫のチャームがついたゴムを取って兄の後ろに立つ。雑にブラシを髪に刺すと太い悲鳴が聞こえた。気にせずがしがしと髪を集める。
「痛ぇわ!ハゲたらどうすんだよ。」
ほとんどいつもの調子で軽口をたたいて兄は笑った。
「兄さんはおでこからきそうなタイプだよね。」
「俺がそうならお前もだろ。」
指の間からこぼれて耳の横にはらりと戻っていった髪をもう一度集めてゴムをかける。3回くるりとまわして留めると、黒猫がしゃらりと右側に垂れた。
「ありがとな。」
少し気分は上向いたようだ。別に落ち込んだり悩んだりも一向にかまわないのだが、さっきの呆けた顔は、そういうのとは少し違うように見えた。整えた髪の先を少しばかりくるくると指先で遊んでから、皿を下げるように言ってブラシを片付けに行った。

そのほんの少しの間で、今度は下げた皿に水を入れながら止まってしまっている。
大きなため息を吐いて、後ろから手を伸ばして水を止めた。
「もったいないんだけど。」
シンクの前から押しのけるようにすると、兄があわてたように、悪い、と言ったから、その首元にゆるく結ばれたネクタイを引っ張った。
「ぉわっ、」
間抜けな声とともにぐらりと傾いた顔をつかまえて、耳の軟骨を舐める。大きく反応したのを見て孔に舌を入れた。小さな頃から兄は耳がいい。隣の部屋の話し声、自分に向けられる詮索の言葉などをよく拾っていた。聴覚が鋭いせいか感じやすいらしかった。
「ばっ、か……耳やめろ……。」
あっという間に真っ赤になった耳をもうひと舐めしてから、どうかした、と聞くと、話しにくそうに口ごもった。
「会長がさぁ……。」
自分の眉がぴくりと動いたのがわかる。
兄と生徒会長が2年生で同じクラスになってから親しくしていたのは知っていた。もともと兄は色んなことに首をつっこむタイプだったし生徒会に引っ張られるのもわかる。
問題はそれじゃない。先日何年かぶりに熱を出した日に、生徒会の作業のために初めてうちに来てから、その後も2度ほど来たその人は、折に触れて肩や背中を触ってくるからなんともいえない存在になっていた。
自然と距離を詰めていていつの間にか撫でてくる、なのに本当に嫌だと思う前には離れている、難しい人だった。
そんなことを思っているのが顔に出ていたかもしれない。兄からお前が嫌なら断ろうかと言われたが、兄の人間関係に口を出したようになるのは本意ではなかった。
やめてほしいと言ったら本当にもう連れて来ないのだろうけど、自分がひどく子どもみたいに思えて言わなかった。
もう一度耳を舐める素振りを見せて話の続きを促す。
「引継ぎ式終えたら会長じゃなくなるから、呼び方替えてくれって言われたんだけどよ……今さらなんて呼んだらいいか難しくて……。」
あまりに阿保らしい言葉が返ってきて肩の力が抜けた。昨日、全校生徒の前で引継ぎ式を迎えた生徒会長は、その人望の厚さを物語るような大きさの花束で送り出されていた。今日はもう前会長になっている。
「なんでもいいんじゃないの。」
そんなこと。
心底どうでもよくなってシンクの中で汚れの浮いた皿を洗い、水切りかごに整列させて黒い通学用リュックを肩にひっかけ、先に家を出た。
木枯らしが吹く季節になってきて早足で歩くと首元が心もとない。マフラーを持って出るべきだったと後悔したが戻る気はなかった。
だいたい自分は名前で呼ばれているのだから同じようにすればいいのではないか。
あんなに呆けるほど考え込むようなことなのか。
苛立ちそのままに歩いていたら、うしろから走って兄が追ってくる。
「なんだよ怒ったのかよ。」
怒ってはいない。呆れているという方が合っている。
今日はこのまま先に電車に乗ろうかと思ったが、まだ赤い耳を隠すためにかぶったフードの中から、兄が走るのに合わせてしゃらしゃらと音が聞こえてきて、少し歩調を緩めてやった。すぐに追いついてきて、駅に向かって2人で歩く。すると半歩うしろでぶつぶつと何か言っていた。
「わかってないわー。いざ目の前にしたら呼べねーからなマジで。なんかこう、俺の中の何かが会長を慕ってる感を出してきて簡単に呼べないのよ。」
まだその話を続ける気かとうんざりする。
リュックのポケットに突っ込んだままだったイヤホンを耳に挿し、サブスクの適当なプレイリストを選んでボリュームを上げた。

電車の中ではおとなしくしていたが、兄は時折不満そうな顔でこちらを見ていた。気づいていないふりをして流れ込んでくる音楽に意識をやっていると、メッセージアプリの通知が震えた。
『なんで怒ってんの』
もうため息しか出てこない。
『皿洗わせたから』
さっきのことを蒸し返して恩着せがましく返してやる。
『ごめん。バイト代入ったからおごる。メシ食べて帰ろ。』
うなだれてそう送ってきた兄に『好きにして』と打ち込んだ。どうせ親は今日も帰ってこないから、おごってくれるというものはおごってもらうことにしよう。
また同じ話をされると面倒だったから、電車を降りてもイヤホンを挿したまま歩いたが、機嫌の直った兄はもう気にならなくなったようだった。

 

部活で美術室に行った兄を、本を読みながら図書室で待つことにした。ちょうど読みたいものがあったからいい時間つぶしになると思った。寒くなったから窓際と出入口のそばを避けて奥の方に座る。真横の書棚がほどよい圧迫感で、集中するにはとてもよかった。
じっと身じろぎもせず読み進めていると、エアコンがついているとはいえ肌寒さが感じられて、カーディガンの襟元を合わせる。無心でページをめくっていると、ふと横に影がさした。
「ちょっとお願いなんだけど、本を取ってもらえないかな?」
窓は閉まっているはずなのに、風が吹いたようにさらりと揺れる黒髪。集中しすぎて気づかなかったのか、自分より先にいたのか、昨日例の引継ぎ式を終えたばかりの前生徒会長が立っていた。
近くで話しかけられると例の声に腹の底がざわつく。できればあまり関わり合いたくないし、特に今日は会いたくなかった。会長職をおりた後はうちに来ることはなくなるし、そうすれば顔を合わせることもなくなると勝手に思い込んでいた。
無視してしまいたかったが、まわりを見ても図書室には今ほかに誰もいない。仕方なく立ち上がって案内されるままについて行った。
奥の世界史ジャンルの、ほとんど誰も借りないような埃のたまった書架。前会長が上を指す。
この学校は私立なだけあって蔵書が多い。公立の図書館もさほど遠くはないが、たいていの調べ物は校内で十分だったし、古い文芸書から人気の新刊もだいたい満遍なく入れられていた。それだけの収蔵をしているこの部屋は、奥にいくほど棚が高く、だいぶ長身の自分や兄でも最上段はギリギリ手が届く高さだ。
「一番上の緑の背表紙のと、隣の青いのなんだ。」
目的の物はなんとなくわかったので、うなずいて手を伸ばした。前会長は教師の信頼も厚く、資料を作るなどの手伝いをしていると聞いたことがある。これもそういったことに使うんだろう。そう思うとさっき無視しようとしたことに少しの申し訳なさを感じる。
分厚い書物を親指と薬指ではさみ、他の指を背表紙に添えて引っ張ると、ずれた本と本の間から埃がふわと舞った。
立派な装丁の、どちらもずしりと重みを主張する本を重ねて両手で差し出すと、にこ、と微笑まれる。
「ありがとう。」
受け取ろうとした手が、自分の手に触った。
思わず警戒して咄嗟に手を離してしまったら、想像以上の重さに前会長の手が本を取りこぼした。落とすまいと姿勢を低くして手を伸ばす。すると同じように屈んだその頭に自分の額がぶつかった。ごつ、と鈍い音がして衝撃にのけぞる。なんとか踏みとどまって書棚に背を預けると、大腿に本をしっかりつかんだ前会長の両腕が乗った。
自分の手もちゃんと無意識に動いていたようで、本を抱え込むようにしたその腕を強くつかんで受け止めていた。
軽い。
半分体重を預けられているはずなのに、その体は驚くほど軽く感じられた。2冊重ねた本の方が重みがある。そんなはずはない。他の生徒とさほど変わらないくらいの背丈で、特段細いような印象でもない。なのに。
下手に動くと本とともにこの人も落としてしまいそうな錯覚をおぼえた。
「ごめんね。びっくりしたね。」
胸の高さからこちらを見上げる目の色が、今日は藤のように見えた。吸い込まれてしまって後悔する。この人がうちに来た時の経験から、見てはいけないと学んだはずなのに。
こちらに半身を乗せたまま、前会長が片方の手を伸ばして額に触った。
「痛いね。」
骨に響く距離で言葉をかけられると膝が震える。並んだ本の背表紙に沿って背中がずる、とすべるように沈んでしまう。目の前の人の腕をつかんでいた手で今度は自分の体を支えようと床を押すが、膝の上の本が信じられないくらい重かった。
ぶつけたところを何度か撫で、その手がゆっくり、耳の輪郭をなぞって肩にかかる。体が跳ねた。力が入らない。床に座りこんでしまった俺の膝に乗り上げるように、前会長が背中を伸ばす。
整った顔が近づいてきてどうすることもできず目をつむった。やわらかく額に触れたのは何か。答えを考えたくない。さほど強くぶつけていないのに、そこに触れた体温と、ふぅとかかる息に熱を与えられて額がどくどくと脈打つ。自分の意志と関係なく心拍数が上がっていく。肩に置かれていた手がまた耳へと戻って、ひっかけるように孔に指が入った。
「……っ!」
声が出そうになったのを飲み込む。熱い。なにがなんだかわからず、視界がまわり始める。そんなことを知ってか知らずか、額でふと笑った気配がした。
「少し赤くなっているけど、大丈夫そうだね。」
きっと本当に大丈夫だからどうか早くどいてほしい。
そんな願いもむなしく、前会長の手は髪と肩と腕にかぶった埃を払うように動いた。ありがたいがそんなことは自分でできる。一度にいろんなところに触られるとぞわぞわとした感覚が背中を走り続けて、目を開けられずに耐えるしかない。
いや、耐える必要はないはずだ。なぜされるがままになっているのだろう。兄以外に、こんなに触らせることなどいつもならしない。いい加減動き出せない自分の体に苛立つ。
「かい、ちょう…!」
ぎゅっと力を入れていた瞼を押し上げ、絞り出すように声を出す。しかし思いのほか掠れてしまって、もう大丈夫だと最後まで言うことはできなかった。
「天元にも言ったんだけれどね。」
どしりと、さっきより重みを帯びた声が耳を侵す。目を開けてしまったことに後悔しかない。おもしろそうに笑った顔が、耳元に寄せられる。
「もう生徒会長ではなくなったから、名前で呼んでくれるかな。」
ついでのように耳たぶを唇で挟まれて、これ以上はだめだと思った。
もうこの声を聞いてはいけない。この人を名前で呼べる生徒などいるのか。混乱する頭で考えたら、呆けた兄の表情が思い起こされて、くだらないと一蹴した朝の自分を殴りたくなった。

がら!と音がして、「おーい!」と呼ぶ聞きなれた声。開かれた扉からひんやりと新しい空気が入ってくる。
机に荷物だけがあるのを見たのだろう、ずんずんと大きな足音が近づいてくる間に前会長が耳から顔を離す。兄が書棚の陰から顔を出した。
「わり、待たせた!」
気の抜けた声に心底安堵したのと同時に、そのまま固まってしまった兄と目が合って、舌打ちしたい気分になる。
「なにやってんの?」
まったく同感だった。いったい何をやっているんだろう。
俺と目の前の人とを交互に見て目をぱちぱちさせる兄の様子に、この事態の元凶である前会長が吹き出した。
「あは、あはははは!ごめ、ごめんね?天元があんまりな顔だから。」
我慢できないという風にお腹を抱えて笑う。そうしていると、なんの不自然さもない、ただの兄の同級生だった。
ひとしきり笑った前会長は、俺の膝の上から軽々と本を抱えて体を起こし、まだ収まりきらない笑いを時々口からこぼしながら言った。
「届かなかったから本を取ってもらったんだけど、頭をぶつけちゃってね。謝ってたんだよ。」
兄の目が本当かと問うている。詮索されたくなくてうなずいた。
「あ、そう。大丈夫か?」
なんとなく腑に落ちない顔をしているが、それでも手を貸してくれる。大丈夫、とさっきまであんなに出なかった言葉がするりと出て、その手を取って立ち上がった。
前会長が目を細め、先生にこれを持っていくから、と体の向きを変えた。またね、と出入口の方へ何歩か足を進めてこちらを振り返る。
「天元。」
「?」
「君の弟は可愛いね。」
満面の笑みでそう言って、再び吹き出しながら、その人は足早に去って行ってしまった。
「え、ほんとに大丈夫?お前。」
兄の視線が痛い。そっぽを向いたままもう一度大丈夫だと言った。頭のてっぺんから爪先までじろじろ見られる。居心地が悪くなって帰ろうと言うと、兄が額に手を置いた。さっき、ぶつけて、触られたところ。
ばし、とその手を払って、しまったと思った。
「大丈夫じゃねーじゃん。」
埃取ってやろうと思っただけだよと、あきれた顔でため息をつかれる。うるさい。ため息をつきたいのはこっちなのだ。さらに何か言いたそうだったが、むかついたから顔の真ん中に平手を一発入れておいた。
「おまっ、せっかく心配してやったのに!!」
ぎゃあぎゃあと喚き始めた兄を放って自分の荷物を取りに動く。読みかけの本をしまってリュックを背負うといつもより重さを感じて、余計な一言が口から落ちた。
「あの人、細いの?」
「え、ええぇぇ?そんなん、普通なんじゃねーの?細くねーわ。ほんとどうしちゃったの。なんかされたのかよ?」
「何もされてない。」
手足をばたつかせて騒ぐ兄の反応にもう何も話したくないし聞きたくもなくなって、胸ぐらをつかんで下唇を思いきり噛んだ。皮膚が破れる感覚と口の中に広がった鉄の味でなんとか自分の形が保てそうな気になる。
びっくりして俺を突き飛ばそうとしたのに拳を握って思いとどまったのが見えて、頭の後ろに手をまわしたら、髪を束ねたゴムについている黒猫の飾りが指をくすぐった。それでようやく落ち着いて、目を閉じて子どもみたいににじみ出る血を吸った。

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