あとから思えば、朝から調子が悪かった。何となく寝起きもすっきりしないし、いつものようになかなか起きない兄の整った顔をひとしきり眺めてから口と鼻を塞いでやっても全然面白くなかった。
特別な用がなければ一緒に登校する兄が、生徒会の手伝いを頼まれたとかで先に行ってしまった。一人で歩くとどうにもぼーっとしてしまって、どこぞのサラリーマンにぶつかられ、スマホを取り落とした。幸い画面は無事のようだったが、気に入っていたケースにひびが入った。
授業中は先生の話がまったく入ってこなかった。学習のことは心配していないのだが、言葉がすべて水のようにつるつると耳のふちをすべっていってしまうので、ひたすら暇だったのが困ってしまった。かといって、居眠りできるような眠気もなく、目は無駄にさえていた。
昼休みは、3年生の教室へ行った。兄はあの銀の髪をふわふわさせながら友達に囲まれていたが、俺の顔を見るとすぐに出てきてくれた。
「あれ、どしたのお前?」
クラスメイトに話すのと同じような調子で話しかけられ、なぜかむっとして、黙って兄の手を引いた。
「おい、」
何か言いたそうなのを知らんふりして廊下を通り抜け、校舎のすみの、あまり人が来ない階段の柱の陰まで引っ張って行って、無言で口を付けた。
「ちょ、」
咎めるように眉間にしわが寄ったのが見えたが、気にせずこちらは目を閉じる。ついばむわけでも離すわけでもなく、ただじっと口と口を付けていると、兄の方から食んできた。俺の下唇をむにむにと食んでいたら物足りなくなったのか、とんとんと舌でつっついてくるのを無視して、ひたすら口を付け続ける。
しばらくして離すと、不満そうな顔をしていた。
「学校でべろ入れるわけないじゃん、ばかなの?」
思ったまま言ったらげんこつを食らった。そのまま兄は真っ赤な顔をして大股で教室に向かって帰ってしまった。それでも、兄に触っていた口からじわっとなにかいいものが体に広がっていくのを感じて、ちょっと調子が上向くような気がした。
だけど結局そんな気がしたのはその時だけで。午後からも先生の話はまったく聞こえず、放課後までひたすら退屈だった。
落ち着かないから兄と帰ろう、と思って迎えに行こうとしたのに、それを見ていたようなタイミングで『用事すませて帰るから、先に帰ってろ』というメッセージが届いた。スマホケースについたばかりのひびが手のひらの皮膚をはさんで、ちり、と痛かった。
昼休みに体にひろがったいいものが、すっと消えてしまったような気がした。
気が付いた時には陽がだいぶ傾いていた。
おとなしく一人で帰り、部屋に着いた途端おそらく寝ていたらしい。まだ制服のままだ。家の中は静かで、そういえば今週は帰りが遅いと両親が言っていたことを思い出す。兄は帰ってきただろうかと重い頭をあげたところで、玄関の鍵が開く音がした。
「おーい」
そのまま入ってくるのかと思えば、呼ぶ声がして、荷物でも運んでほしいのかと行ってみれば、兄は一人ではなかった。兄のうしろには、さらりと黒髪を揺らす不思議な空気の男が立っていた。付き合いのある人間が少ない自分でもわかる。この人は、生徒会長だ。入学式の時、壇上で挨拶をしていた男。妙な、人の腹の中を気味悪くくすぐるような、それでいて頭を浮つかせるような声だった。
「同じクラスの、産屋敷耀哉くん。生徒会長だよ、見たことあるだろ?」
「こんにちは、君が天元の弟だね。お邪魔してもいいかな?」
にこりと笑いかけられて、なぜか背中がざわざわする。
「ちょっと、生徒会のやることがあってさ、部屋でやるから。」
生徒会の仕事なら、学校でやればいいのではないのか。兄がいつものように雑に靴を脱ぐ。続いてするりと流れるような所作で靴を脱いだ生徒会長に、思わず後ずさってしまった。
「あー……急に連れてきてごめんな?すぐ終わらせるから。」
いつもと様子が違う俺に気付いた兄だが、きっと勘違いしている。人見知りしているとでも思っているのだろう。
生徒会長を連れて部屋に入っていく背中を見送りかけたが、どことなくおもしろくなくて、自分もついて入った。
「なにか、手伝うことある?」
なんでもないふりをして声を掛けたら、生徒会長がまたにこりと笑った。
「それは助かるよ。ねぇ天元。」
「え、いいけどよ。いいのかよ?」
「その方が早く終わるでしょ。なにするの?」
聞けば役員の中に、もうじき転校する生徒がいるらしい。ちょうど、もうすぐ選挙で生徒会任期も終わることだし、ほかの役員でメッセージカードを贈ることにしたのだが、生徒会室には本人がいて作業ができないため、持ち帰ってやることにしたそうだ。
それを説明する会長の声が、耳の中にゆっくりと染みるように入ってきて、聞いているうちに背中のざわざわが大きくなる。慣れない感覚だ。
ちらりと本人の顔を見るが、これといった意図はなさそうに見える。
「こういうの、天元が上手だから。」
にこにこしながら、会長はカバンからいろいろ取り出して並べる。役員がそれぞれメッセージを書いたのであろうカードや、飾るのに使うのであろう、紙テープやシール、マジックなど。いかにも女子生徒が好きそうな作業だが、何度か生徒会の仕事を手伝っていた兄がたまたま美術部で、生徒会長のクラスメイトで。兄が仕上げることになったようだ。
「俺役員じゃねぇのに、やっちゃって本当にいいのかなー。」
「天元は人気者だからね。あの子たちも天元にやってもらいたかったんだよ。」
やわらかく言われて兄がくすぐったそうに笑う。
大きくため息をつきそうになって耐えた。自分に手伝えることはあまりない。
「私は自分のメッセージがまだだから、まずこれを書くよ。」
生徒会長は淡い藤色のカードを取り、ペンを選び始めた。
「ちゃんと仕事あるから。お前、これ貼る係な。」
兄は心なしか浮かれた様子で、大きめの色紙と、別れを惜しむ言葉が綴られたカードをこちらへやった。貼り付けるのだろう場所に、うすく鉛筆で線が引かれている。それぞれの枠の中に、誰のカードを貼ればいいのか名前もうっすらと。もしかして兄の作品のほんのわずかな一部になれるのだろうか。鉛筆の線を指でなぞる。
いつもだったらそんなこと思わないのに。やはりこの日は、おかしかったのだ。
紙を貼るくらいならできそうだと思ったところで。
「あ!糊がねぇわ!」
唐突に兄が大きな声を出し、勢いよく立ち上がり、ついでに飲む物取ってくるわと出て行ってしまった。
2人になってしまった部屋で、居心地の悪さを感じるのは自分だけだろうか。
ちらりと生徒会長を見ると、鼻歌でも歌いそうな空気でペンをくるくるとまわしながら、たぶん、何を書くか考えている。一緒に仕事をしてきた仲間のことを思っているのだろう、ふふと上がる口角、白く滑らかで広めの額、肌とのコントラストが美しい黒髪…。声ばかり気になっていたが、素直にきれいな人だと思った。兄と並んでも何の違和感もない。
あまりじっと見るのも悪いかと思って目をそらす。するとメッセージカードを見つめたまま、あの声が話しかけてきた。
「天元に似てるね。」
ぞわっと、背中がふくれたような感じがした。
そらした目を戻すと、何色と言ったらいいのかよくわからない瞳と視線が合った。吸い込まれて、今度はそらせない。
持っていたペンを置いた手が、す、と伸びてきて、頬をなでられる。
「似てる。」
もう一度そう言って、やわらかい指が頬をたどり、耳たぶをつまんだ。
心臓がぐ、とあがってくるような、全身の毛が立つような、例えがたい感覚。兄に耳を触られる時とは違う、浮いているのに沈んでいくような。なんだ、これは。
引っ張るようにして耳から離れた生徒会長の指がペンを再度拾った時、ドタドタと戻ってくる足音が妙に大きく聞こえた。やっと、視線をそらせた。
「糊見つかんねー。それ貼らないとできねぇから、今日はだめだわ。とりあえず、茶だけ取ってきたから、まぁ飲んで。」
明るい兄の声で頭が少しはっきりした気がして、目の前に置かれたお茶を喉に流し込んだ。
作業は何も進まず、また後日ということになった。生徒会長は帰り際、本当に軽く、ぽんと俺の肩に手をかけた。
「弟くん、また手伝ってくれると嬉しい。」
固まってしまった俺を見て、ふふと笑ってその男は帰って行った。学校でも誰にでもそういうことを自然とやるのだろう、兄はまったく気にしていない様子で、生徒会長を見送った。
はぁー…と大きく息を吐いて壁にもたれる。見送りが終わった兄が戻って来て、不思議そうな顔をした。
「お前今日どしたの?」
心配そうな顔を近づけてきたから、両手を伸ばして体を引き寄せた。首元に顔を埋め、深呼吸。とく、とく、と頸動脈の音が聞こえてきて、やっと力が抜ける。そのまま目を閉じてじっとする。ぎゅっと体にしがみつく。ああ、落ち着く。
固まった体がせっかく解けたと思ったら、急に兄が体を離し、額に手を当ててきた。
「具合悪いんじゃねぇか!」
あっちぃ!とあわてた兄がなんだかおかしくて、もう一度体をくっつける。
「熱あるだろ、早く言えよ。」
「熱あったの、俺?」
間抜けなことにまったく気が付かなかった。熱さを確かめるように兄の手がぺたぺた顔に触れる。さっき触られた耳にも。生徒会長につままれた時のあの感覚を追い出そうと、兄の手に、耳を頬をすり寄せた。大きな手が俺の顔を包む。
「やっぱりおかしいわーお前。」
と言いながら嬉しそうな顔をするから少しむかついて、頬をさする親指にかみついた。はみ、はみ、と甘噛みしているうちに、昼間あんなにきてくれなかった眠気がどっと襲ってくる。兄の方へ体重を預ける。瞼が下りてきて、頭が重くなる。
「ほら、運んでやるから。」
食んでいた指を取り上げられて、兄の大きな体に持ち上げられるころには、俺は半分夢の中にいた。
あの不思議な声に背中がざわついたのは、熱のせいなのか、なんなのか。それを思い出すのがなんとなく怖くて、眠りに沈みきる前に、兄の背中をぎゅうと抱いた。
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