午前五時二十分。三分前に鳴き声を上げたアラームのスヌーズを止める。週の頭に降った雨で桜も散ってしまって、だいぶあたたかくなったとはいえ、布団のずり落ちた肩が少し冷えていた。
起き上がってトイレをすませ、念入りに手を洗ってから冷蔵庫を開ける。昨夜冷凍庫から移しておいたチャック付きポリ袋をひとつ手に取って、扉を閉めた。冷気にあたってますます肌寒く、台所仕事を始める前に、椅子の背から兄のパーカーを取って勝手に袖を通した。寝静まっていた夜の間に冷え切った布地に自分の体温が少しずつうつっていく。フードの根本に鼻を埋めるとうっすら感じられたのは、ほんの少し自分のものと違う男の体臭。
袖をまくり、コンロにフライパンを乗せて火にかける。ぽかりと開いたビニールの口から立ち上った醤油と砂糖の匂いが胃袋をくすぐった。斜め後ろの窓から柔らかな陽光が差してきて、ちょうど醤油に浸かった肉を照らした。透ける液体はほんのり赤い。昨日封を開けたばかりの調味料だ。
さっと油を引いたところに箸でつまんだものを乗せていく。じゅわっと立つ音、香ばしい煙、箸の感覚からして柔らかさも申し分なさそうだ。空いたコンロでは卵を焼き、レンジで火を通した野菜を和える。焦がさないよう弱火で時々返しながらじくりと火を通した肉がつやをまとった頃、今日の昼食になるものが全てそろう。
シンクにまっすぐ並べた箱へ、いつものように詰めていくと、いつも以上に完璧な出来栄えで柄にもなくほんの少し気分が上向く。兄がこの週末に花見でもと話していたことを思い出した。雨で一足先に散ってしまったが、下味をつけて冷凍庫に寝かせてある肉がまだいくつもある。そのうちどれかに火を通し、こうして箱に入れて、炊いた米のかわりに日本酒でも下げて、葉桜を眺めるのも悪くないのかもしれなかった。
五時五十五分。手を洗って指先についた調味料を落とし、顔を洗う。髭を剃って寝癖を直し、ついでに洗面台を軽く拭いて、スーツに着替える。干してあった洗濯物の列から大判のハンカチを取り、調理台へ戻ると冷めた箱を組み立て包む。本日もつつがなく仕事が終わりますように。平穏に今日が終われば土曜になる。花見に行こう。脱いだ兄のパーカーにもう一度顔を埋める。昨日までの自分では考えられないほど、すでに気持ちが明日へ向かって浮ついている。それが不思議と不快ではないことに驚いた。
六時二十分。あとは外へ出るだけになったのを確認して、冷凍庫を開ける。びっしり等間隔で並んだポリ袋。真ん中の白い窓には入れた調味料の組み合わせを書いてある。探し物は探すまでもない。こんなに楽しみなら、とっておきを使おう、明日。
いつもより大きめの弁当箱を使うことにして、バジルと書いた袋と、今朝使ったのと同じ、たっぷりの醤油で満たされた袋を出した。密閉されているのに何となく香るような気がするのは期待からだろう。冷凍庫を閉め、冷蔵庫を開け、真ん中の空いたスペースに並べて置く。すっかり昇ってきた陽が赤みのあるそれを照らした。まだ凍てついて動くことのない珠が、こちらを見つめていた。醤油の赤よりもっと紅い、兄さんの、眼。形を崩さないようゆっくり煮てから箱に詰めれば、葉桜が見られるに違いない。
六時三十五分、いつもより出発が十分遅く、一本遅い電車に乗らねばならなくなったが、気分はずっと上向いたままで、締まる玄関の音も軽やかな気がした。
(ワンライ「弁当箱」)
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