コビロちゅう小文

たしかに許可した。それなのに、子猫のような薄くて小さい舌が、表皮の毛羽立った下唇を舐めたことにひどく驚愕する。皿の牛乳をすする姿を想像させるそれは、しかし決してそんな愛らしいものではないと後に知らされる。
なんともないと思っていたことが、犬に噛まれるぐらいのと思っていたことが、急にとんでもなく恥ずかしい行為のような気がしてくる。制止をかけようと開いた口に、愛玩動物の顔をした猛獣がかぶりつく。あっ、と思ったときには自分の舌を味わわれていた。ざらり、とぬめった体温を擦り合わされると後ろ首に鳥肌が立った。唐突によくない感覚を呼び起こされて戸惑う。鳥肌は首をのぼって、地肌を粟立て、そのまま思考を揺さぶった。同時に疑問が浮かぶ。愛情を注がれることが、好意を向けられることが当然といったすまし顔は、かぶり物だったのではないかと。
まて、の発音をするために唇を合わせることはかなわず、鼻から空気だけが抜ける。とうてい自分の発した音とは思えないほど、芯の抜けた息が伸びて。思わず目を開いてしまうと、そこに伏せる桃色がかったまつ毛ともっと濃い同系色の頬骨。小さな毛穴から汗がにじんでいる。
発語は許されなかった。「ローさん!」とコビーがくっきり発音するとき前歯の根元に当たるものが、懸命にローのそこを舐めていて。話すとき食べるとき、自分でも当たるところであるのに、他人に触られるとこうも落ち着かないものかと知らされる。
言葉でだめなら仕方ない、押し返すまで。そう思って力を込めた手は、いつの間にか左右がどちらもコビーによって指の一本一本を分けられソファの背に沈められていた。ソファに乗り上げた男がそのまま体重を乗せているから当然拘束はかたい。キスをしていいかと聞かれたから、していいと答えたそのときは、まだ自由だったはず。人差し指と中指が、間に挟まったコビーの人差し指をぎゅっと抱きしめたようになって、これは目指していたことと違う、と慌てふためく。十本の指を動かそうと、ばらりばらりとやってみれば、豆だらけの十指にじっくりと握りしめられ、なだめられてしまった。落ち着きのないことを咎めるような人差し指が、一度抜け出て手の平を爪でかく。とたんにそこに電気を流されたような痺れが走って、全身が一度細かく震えたのがわかった。
やはり言葉でやめさせるしか。舌を受け入れるために自然開いていた口を、一回り大きくすると口角が濡れた。口内が、溢れそうなほど満ちている。コビーの舌からつたってきた唾液だと少し考えればすぐにわかった。それが自分の体液と混じり合って決壊しそうな泉になっている。これを零すのは、はしたない、気がする。キスの途中で涎を垂らすなどと、見た目を想像しただけで頭から蒸気が出そうだ。だって街中で見たあのカップルは、キスの途中で涎など垂らしていなかった。やわらかな陽光の中、仲睦まじく手を取り合い、そして唇を合わせる姿を、この若い海兵は見ていた。かの麦わらに向けるのとも、大先輩である拳骨中将に向けるのとも違う憧れをその視線に宿して。部屋に戻って、ちょうど本を一冊読み終えたところで、珈琲を運んできたコビーにしてもいいかと問われるまで、ローはさっぱり忘れていたのだが。目がまわる。鼻から取り入れる酸素だけでは足りないのだ。息を継ぐにはたっぷりと頬を膨らませているものをどうにかしなければ。
波を立てないよう奥歯を噛みしめる。嚥下のために持ち上がろうとした舌はしかし口蓋に届かずコビーの舌の裏を強く擦った。
「ん、っふ、んぅう……」
表面とはちがう舌触りに、なんらかの回路が焼ける音が聞こえた。邪魔された舌は目的を果たすことがきず、咽頭だけが上下して、食道に流れ込んだ濁流のわずか、閉じきらなかった気道に入り込んでしまう。げほっ、と飛び出す空気が圧を押し返す。どぷりと蜜が、口角から溢れる。
「まっ、げほっ、こ、っっふ、うっ」
「すみません!」
事態をすぐに理解したコビーはローの背をさすった。だが下を向くことができずローは細かな咳を繰り返した。まだ口内に残っているものは、上を向いていないと全部出てしまう。
「嫌でしたか? すみません夢中になってしまって。吐き出しますか?」
それも憚られた。涙の浮いてきた目で必要ないと断って、解放された片手で閉じ切らない口を覆う。狼狽する気道が落ち着いた隙に飲み込んだ。
こんなに恥ずかしい思いをするようなことだったか。想定していなかった呼吸の促拍。なにか、この男とローとの間で、行為に対して齟齬があったのかもしれない。
「大丈夫だ、嫌じゃ、ねぇ」
「すみませんでした。珈琲飲みますか?」
持たされたマグカップはほどよい温度になっていた。濡れた頬を拭うことすら忘れて啜る横で、座り直したコビーもカップを傾ける。ローのそれとは違って白い水面のホットミルクは若者の好物だ。その泉に浸された舌が子猫のようだというのに、なぜか熱気を帯びた体が震えだす。隠さなければと含んだ苦水は、口内に沁みるほどしかなかった。

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