骨張ったうなじを間近に鼻を鳴らしてみたところで、男の皮脂と汗のにおいくらいのものだ。体臭とくくられるそれを嗅がれるなど誰だっていい気分がするものじゃない。「やめろよ」ローも例にもれず、顔をしかめて後ろ首を手で覆ってしまった。悪い、と溢して、違うなと思ったが、替わる言葉が見つからない。一瞬でニヒルな笑みを貼りつけたローはおれの胸元に鼻を寄せ、同じ仕草をして見せた。ああ、全部ばれている。「煙草くせぇ」でも嫌いじゃないと言ったお前が本当は、番を誘う香りを嗅いでみたいと思っていることを知っている。それは生涯嗅ぐことのできないものだと、焦がれるのを隠せないのはおれも同じ。
(α×αのオメガバスモロ)
なんだその笑いかたは。ひゃっひゃと普段聞くことのないような裏返った声を立ててスモーカーを追い越し自動ドアを開けた男は、つまり酔っぱらいだった。ついて来るなと言ったのに、「おれにはまだ一張羅がある」などと、お気に入りのコラゾンとかなんとかいうブランドのロングコートをパンツ一丁に着て、のこのこと。夜中のランドリーはそこだけが真っ白に明るく別世界のようで目が眩む。さっさと洗濯物を丸い口の中に押し込んだローは真ん中のテーブルに行儀悪く腰を掛けた。「終わるまで暇をつぶそうぜ」最悪だ。言葉を失っている間にもうファスナーを下ろし始めている。
「やめろ変態」「好きだろ。誰に見せても恥ずかしくない体だぜ。存分に堪能しろよ」酩酊とはおそろしい。すけべな意味でなく、あとで本人の羞恥に働きかけてやるために動画におさめておいてやろうか、と思ったがしかしこの男は意外にも「よく撮れてるじゃねぇか」なんてけろりとしているのだ。好きにしろと言い捨てたのに、満足そうに笑った男が臍の下までコートを開けたところで後ろの自動ドアが開いて、思わず自分の上着を変態に投げつけていた。見せても、見せなくても。この酔っ払いに対するスモーカーの機嫌は降下しかない。
(現パロデキてるスモロ)
散らかした服を拾ったらそこに落ちていた。映像電伝虫で撮ったとみられる小さな紙は皺と小さな破れがあちこちに。見ていいものかという判断より早く視界に飛び込んだものは肌色と白色。首を傾げると死の文字を刻んだ長い指がそれを拾い上げた。「なんだと思う?」興味を持ったことを指摘されるとまだ葉巻を咥えていない口元が落ち着かない。特に綺麗にというわけでもなくポケットにそれをしまったローは、自らの右腕を指した。「最後の白斑だった」刺青を入れる前に撮ってもらったという表情からは読み取れるものがない。白斑とは皮膚にできるものだろうか。病気という言葉はこの男に似合っていたし似合わなくもあった。
ローが着たばかりの服の袖をまくると、ハートを模した刺青が、今は真ん中をぱっくりと縫合痕に割られている。「これも撮っておくかと思ったが、残るかもとトニー屋に言われたからな」左手で時折さすることのあるその傷は、当時右腕を完全に切断したものらしい。日ごろ完璧を求める外科医にして、残しておきたいものかと聞くと「残しておきたいものは、みんな失ったものだ」と言ってローはキスをせがんだ。息を継ぐ間に「あんたのものはなにも残さねぇよ」とこぼした台詞の意味は、海兵と海賊という立場のことか、それとも。
(みけさんよりお題「写真」いただきました)
煙草じゃなくて葉巻なんだな。
その言葉で確信する。
「ロー、今日誰かと会ったか?」
「今日?今日は……ナミ屋とゴッドっていう奴らに会った。海賊ごっこのこと知ってて、妙に盛り上がっちまって。……あれ?おれ今日なんでここに来た?」
それでも来てくれたことに安堵するべきなのか。スモーカーは燃え始めてきたばかりの苦い煙で口腔を満たした。
「まぁなんか約束してたってことなんだろ?」
ローがスモーカーの淹れた珈琲を啜る。白くまを模したマグカップは手製で、この家に置いたばかりのロー専用。だがそうだということはわからなくなったらしい。先週、剣道部に呼ばれてロロノアに会った日だ。
お前の趣味?と笑ったローの顔が忘れられない。たぶん剣豪にも海賊のことが在るのだと、度重なる同じような出来事のせいで気がついた。
そうなのだとわかってから、スモーカーは毎日ローに約束を取り付けるようになった。現状確認といってもいい。いつどこでローが誰に会うのかはランダム仕様で予測がつかない。失くしたものは教えた時点で新しく覚えるから、都度書き換えはきくらしいのだが。
「ロー、明日も学校が終わったらうちで飯食わせてやる」
金のない学生に飯を食わせるというのは口実だ。ローはスマートフォンを取り出しカレンダーを開けた。
「おれ飯食いに来たのか? ああ、書いてあった。なら明日は遠慮する。サッカーに呼ばれてんだ。週末試合なのにミッドフィルターがひとりケガしただかで手伝ってくれって」
高校時代に数種の部活動で活躍を見せたローは大学生になっても引っ張りだこらしい。日替わりでサークルに呼ばれていた。スモーカーが苦々しい顔になるのは葉巻のせいではない。
「シャチみたいな帽子被ったフォワードの奴が上手いらしくて、なんとか勝ちたい試合なんだと」
続くサークルメンバーの話の中に、記憶にある姿がいくつも見えた。口の中を転がす煙を追い出して紡ぐ言葉を、スモーカーは見つけられない。
(おたかわさんよりお題「わすれもの」いただきました)
ほんの出来心だった。
そこに置かれたままになっていたコートには、それまで興味を持ったこともなかった。正義とはかつて見放されたものであり、反対側に足を沈めている今は、積極的に遠ざけているものであり。
湿度があった。これから身を投じる修羅にわずかな焦りと不安と、懐かしむ気持ちがあった。室温に溶け出したのは喫煙の、名も知らぬ銘柄。紙も紅も混じらないものであったのに、愛の巨躯が身につけたのかもしれない姿が一瞬よぎって、もう鼻を埋めていた。同じくしたのは潮の香りだけ。外気を一枚隔てた分、鼓動が保温されただけ。もう草の種類がわからない煙に噎せる、夢の中に座していた。
(いわゆる彼シャツスモロ)
意外と酒癖が悪ぃな。
そう思ってふと、海賊の酒癖が悪いことに意外とつけてしまったことにスモーカーは舌打ちした。
だがそれを名乗っていながら医療活動に従事する姿だったり、出された食事に手を合わせる姿だったりを何度も目にするうち、この外科医に対する枕詞が変化してしまっていることは自覚している。こちらの喫煙を指して健康を害すると宣う割には、この極寒の地で雪の中、度数の高い酒をらっぱ飲みするのはなんというか、海賊という範囲からずれてしまった像をさらにずらす行為に見えた。当の本人はといえば、アルコールを煽るたび心許なくなる足元に対し機嫌だけを上昇させ、ついには座り込んで、寝息を立ててしまうものだから。
(扉絵幻覚スモロ)
隣のシャッターは、油と砂埃が黒く固まった横縞で、いかにも、という風体だった。公共料金の知らせが何枚も、大通りに面して建つ予定のマンション広告と一緒にもねじこまれている。
スモーカーと並んで立ったその店は、隣に負けじと歪んだ格子窓が満遍なく錆び、しかし斜め上を見上げれば換気口から獣臭のする湯気が噴き上げているのと、扉の向こうから「ごちそうさま」が聞こえることからして、確かに営業しているようだった。
「安くて美味ぇんだ」
慣れた姿勢で暖簾をくぐる男に、ひきつる頬を隠して続く。破れかけの椅子をコーティングしているラードがどうか尻に染みませんように。この男と出かける日に、二度とヴィンテージデニムなどおろさない。固く誓ったローの鼻腔を満たしたスープの香りは、とてもじゃないが美味そうだなんて思えなかった。
正直食べる前から腹はいっぱいだった。どこもかしこも脂でぬるつく店内はその臭いで満ちて鼻が曲がりそうだ。茶色く汚れ破れた張り紙に「テールスープ」と書いてある。テールってこんなだったか?しっぽに臭いなんてあるのか?眩暈をこらえてなんとか太麺をひとくち啜ると、隣の男はすでに半分腹の中におさめていて「うまいだろ」と宣った。どことなく得意げに見えるのは幻覚か。前に梅干しを押し付けたとき、ひとつも表情を変えず平らげた。丸飲みしたのかと思っていたが、舌が馬鹿なんじゃないだろうか。ぐったりと絡み合ったもやしを延々と咀嚼しながら、仲良く食卓を囲む両親の姿を思い出す。食の好みは関係性に大きな影響を及ぼすだろう。
どうやら自分にそこそこの好意を寄せているらしいこの男とうまくやれるのか、正直自信がわかなかった。
テカテカのテーブルの上をずっと同じリズムで煙草のフィルターが跳ねていた。およそ倍の時間をかけて食べるローを待つその姿は、本人にその気がなくても急かされているように感じる。まったく落ち着かない。味わうには口に合わないスープだったからほとんど詰め込むようにして食べたのだが、どうやらそれはローの本意とは別の意味合いに受け取られたようだった。最後に重ねて「うまいだろ」と満足気にしたスモーカーが勝手に二人分の会計を済ませる。格好だけでもと財布を出す気にすらならなかった。口の中が獣臭い。ガムか甘いものがほしい。
「今日はありがとう、よかったらデザート食って行かないか」と一応の愛想をみせたローに返ってきたものは、葉がぎゅっと詰まって余った先っぽの紙がよれた煙草。おれぁこれで十分だ。自己中心的な火種の向こうに親戚のじいちゃんの笑顔が見える。「強面だがまっすぐで仕事熱心な奴なんだ」そう笑うじいちゃんは偶然この男の上司だったが、幼い頃から猫可愛がりしてくれるセンゴクにローは心の中で謝るしかできなかった。ごめん、こいつと合う気がしねぇ。うまそうに膨らんだ頬から吹き出された煙は苦くて、ローは噎せた。
(不味いらーめん屋 スモロ)
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