服を破り、内臓までをぶつりと刺す感触は手が覚えていた。だから、大丈夫だなんて、はじめからわかっていた。それなのに頭の中を警報が鳴り止まない。髪を頬を滝のように流れる雨で山が悲鳴をあげている。間もなくして、痕跡はすべて押し流されるだろう。何日も前からにらんでいた雨雲レーダー、付近の地図、道路情報、近隣の噂。全て上手くいった。
今世でも、おとなも法律も守ってくれない世界に生きる。前と何も変わらない。弟がそばにいる以外は。前世の血の悔いから解放されて、里から解放されて、それでもなお録でもない境遇に置かれたということは罰であり、兄弟手を取り合って生きなさいという仏の教えかとまで思った。構わない。どうせ産まれる前から人殺しだ。家業だったから。散々屠った鬼だって元は皆人間だった。
濡れた土、すえた体液、土砂降りで匂ってこないものが記憶の内側から鼻を刺す。喉の奥から濁流の気配がする。暗闇の沢に掛かる橋がみしみしと水圧に絶えている。もたないかもしれない。死体の上に夕飯を吐いた。弟は人殺しはやらないと言った。それならばと引き受けた俺を、車で待っている。だめだ。弟は俺を止めた。なぜ。生きるために絶つ命だ、前と同じ。なぜ弟はやらないと言った。もう、自分もやってはいけないのかもしれない。同じことなのに。
雷が降る。照らされた橋が、横から落ちた稲妻で割れた。木片がもみくちゃになって、岸壁を削りながら渦を膨らませ流れる。同じ雨に洗われた手を見ると、おとなの手だった。あの夜より一回りもふた回りも大きな。赤の他人の命を奪ることなどなんでもない予定だった。手を差し伸べない親戚、遠巻きの友だち、学校の先生、取るに足らない、コンビニの店員、板金屋の暴走族。それよりももっと、人生に関わることのない目の前の死体。
揺れる林は母の声のようだった。
走った。前世の夜より重い足がどすどすと無様な跡を泥に残す。俺はこんな人間だったのか。車を捨てて逃げなければ。鉄臭い手で扉を開ければ、さもわかっていた顔の弟がハンドルを握っているに違いなかった。
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