もーそーわんしーんまとめ⑤6/26-7/5 - 1/10

6/26
週なかば、水曜日の夜21時58分。時計を見ながらちょうどいい温度で飲めるように淹れたコーヒーを片手に自室の机につく。パソコンの画面はスタンバイできていて、スタンドにひっかけてある白いヘッドフォンを取って耳を覆った。もう外の余計な音は聞こえない。
22時ちょうど、デジタルの丸い音でポンポンと奏でる曲が流れてきて、低く耳なじみのいい声が乗る。

番組タイトルのコール、続いて挨拶が流れるように耳に入ってくる。
ああ、今日もいい声。

弟が頼み込まれて始めたラジオ。だいぶ慣れてきたのだろう、しゃべり方がこなれてきた。

以前、弟の同級生が何人かうちに来て飲み食いした時に、ピカピカに磨き上げられた洗面所や風呂のサッシに気づいた女子たちに、男2人暮らしでどうしているのかと聞かれ、潔癖症に近い弟が洗剤や道具にこだわってやっていることが知られてしまった。
不必要なことをしゃべらず、いつも清潔感を漂わせている弟と共通の話題をつくる格好のネタだと思われたのだろう、掃除の方法を教えてほしいと次から次へと女子に話しかけられるようになったらしい。
聞かれるごと、いちいち面倒くさそうに答えていたところ、趣味と実益を兼ねて音声番組の配信をしているという子が弟にもやってみては、と提案してきたのだ。

最初は難色を示していたが、顔を出さなくていいのと、一度に複数人の質問に答えられること、そしてなにより、投げ銭システムによりいくらかお金になることが決め手になったらしい。毎週1回10分ほど、1度につき1か所、何をどう使って磨けばいいかなんて主婦が聞くような内容の配信を始めたのだ。

友人の間だけで聴かれていたものが、ひとり、またひとりと全く現実世界で繋がりのないリスナーを増やしている。
そりゃそうだ、若い男の、こんな耳をとろかすような声で磨き方なんか呟くようにしゃべられたら、誰だっておちる。

先日学内で見かけた、人に囲まれて控え目に愛想笑いを振りまく様子を思い出して、ヘッドフォンをぎゅっと耳に押し付けてしまう。
お前ら知らないだろ、この、あまり抑揚のない安定した語り口が、この家に帰ってくると、心臓をぺちゃんこにつぶすような声でしゃべるんだぜ。
昨夜ベッドの上で散々に泣かされたことを思い出して、じわぁと顔が熱くなった。

『シーツ汚さないでって言ったよね、兄さん。』
『あーほら床に垂らして。誰が毎日きれいにしてると思ってるの。』
『そのドロドロの手で触らないでね。』

責め立てるくせに汚さなくてすむようには全くしてくれない。俺の耳が弱いことを知っていて、耳輪を噛みながら的確に鼓膜を撃ち抜いてくるのだ。
耳を包むやわらかいメッシュの向こうで、リスナーの質問に答える形で鏡の磨き方を淡々としゃべる声と、頭の中で再生されるものとが混ざり合って体が痺れる。

不特定多数を迷わせる声の垂れ流しはわずか10分、もうエンディングだ。わざわざ紹介してもらったスタジオを使っているから、帰宅するまでには少し時間がかかる。
投げ銭アプリでいくらか決済して、ヘッドフォンを所定の位置に戻し、まだ残っているけど冷めてしまったコーヒーを持って立ち上がった。
シャワーを浴びて、熱を持ち始めたものを自分で1回慰めて、水垢ひとつない鏡に白濁を飛ばした頃にきっと弟が帰るはず。
ざわつく胸を抑えながら浴室に入る。
はやく、ここでしか聞かせない声で、俺をすり潰してくれ。

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