ばん、と音が鳴って、脳が右にゆれる。視界がぐるんとまわって、戻ったと思ったら目の前に床が見えた。耳のあたりからじんじん痺れる。鼻の感覚がないが何かがたらりと鼻の下に垂れた感触がする。
殴られたと気づいたのは髪をつかまれて起こされてからだ。何かわめいて叱られているが、耳は音を拾えないし、目は腫れていて相手の顔がよく見えない。
しばらく怒鳴られたのち、痺れたままの左耳を今度は平手で打たれて、また床に転がる。
起き上がる気力もなくそのままだらりと転がっていると、いったん気がすんだのか、殴った男は自分の衣服を整え、仕事に行ってくると上着と黒い大きな鞄を持って出て行った。
音のしなくなった部屋で倒れたまま動けない。頭はもう痛みを感じなくなっていて、だけど視界はずっとぐわんぐわん揺れているような気がする。鼻から垂れた血が床に落ちる。
ああ、拭かなくては。血はすぐに固まってしまう。
床を汚したままにしていたらまた殴られる。汚していなくても殴られるけど。
まとまらない思考のまま、なんとか上体を起こす。
早朝まだ寝ていたところ尻に玩具を入れられ、そのあと首を絞められながらセックスして、朝から濃すぎる交わりが終わってシャワーを浴びたあとだった。相手が仕事に行く時間だったからいってらっしゃいと笑ったら空気がひりついて、しまったと思った。
笑ったら殴られる時と、笑わなくて殴られる時の違いがいまいちよくわからない。でもどっちでもよかった。わかる気もなかった。痛いのは好きじゃないけど殴られるのは好きだし。
テーブルの上のティッシュを取ろうと思ったけど、ものすごく遠く感じられて、座り込んだところからそれ以上体は起こせなかった。
あの男はさっきどんな顔してたっけ。ぼんやりした頭で思い出そうとするが、さっきのぼやけた顔しか出てこない。おかしいな。ものすごくイケメンだった気がするんだけど。ITとか、なんとか取引とか、そういう仕事をしてると言っていた。いつもいいスーツを着て、マンションもずいぶんな高層階。飲み屋の友達から紹介されて、俺だって相当美人な自覚あるけど、滅多にないくらいの、整った顔のサラリーマンだった。自分と張り合えるぐらいの面の男なんて珍しくて、ちやほやされて、付き合って、誘われるまま家に転がりこんで。そこから世界は遮断された。
約束したのは、家から出ない、ということ。つながれたりしているわけではないけれど、玄関から出て行かない限り、ベランダから逃げられるような階じゃない。玄関はマンションのセキュリティで24時間監視カメラがまわっていると言っていた。スマホは預かられた。たいした仕事をしていたわけじゃないし、家族とも縁が希薄な俺はきっと彼にぴったりだったんだと思う。
暴力的な男が好きなことは知っていたらしく、最初のセックスから殴ってくれた。
ペニスリングをつけられて、お尻を何度もたたかれ、そのたびに達した。
気を失いそうな気持ちよさのあと、1週間ぐらいは人が変わったみたいに優しくされた。手ずからご飯を食べさせられ、服を着替えさせられ、夜は髪を撫でられながら夢見心地で眠った。
そして彼がそれに飽きたごろから、2週間ぐらいは手酷くされる。殴られ、床に転がされ、蹴られて吐いた物は自分で片付けた。情事のあと裸のままベランダに出されたり、風呂場のシャワーヘッドにくくりつけられたままにされたり、今まで付き合った男の中でも際立って嗜虐姓の強い奴だった。
そんな男が自分の腹の中で息を詰めて絶頂する瞬間の顔がたまらなく好きだった。寄せられた眉と垂れる汗とを見るだけでもう一回イケそうだった。こいつは俺を殴る時も同じような顔をした。後から痛みは感じるしあちこち腫れるのは困ったけど、殴られる瞬間だけはその顔が自分に向けられて好きだった。
それを繰り返されているうちに、その男の玩具として生きるのが幸せだと思うようになった。これを受け止められるのは自分だけだと。優しくされる期間はなおのこと、泣きながらひどい男でごめんねと言われたら、こいつには俺しかいないと自分で自分に刷り込んだ。
この日はそんな穏やかな期間が終わって5日目ぐらいだった。今回は派手に左側ばかり殴られて、まぶたも頬も腫れがなかなかひかなかった。何とかして立ち上がり、テーブルからティッシュを取って、床と、鼻を拭く。あいつが帰ってきたらきっと朝までセックス漬けだろうから、寝られるうちに寝ておこうとふらつきながら寝室へ行き、ベッドに倒れこんだ。
がちゃんがちゃんと乱暴に扉を引っ張る音で目が覚めた。あのまま昏々と寝ていたらしい。
家主は鍵を持っているはずだから宅急便でもきたのかとありもしないことを考えてみる。頭がまわらない。シーツに手をついて起き上がろうとしてみたが、力が入らなかった。寝転んだまま考える。宅急便は下のロックを解除しないと入って来られないし、その開け方を俺は教えられていない。そもそもこの家に来てから宅急便など一度も来たことはなかった。
ぼーっとしている間も扉がずっと音を立てていたが、そのうち諦めたのか静かになった。
一瞬のち、かちりと鍵がまわる。あれ、これはまずいんじゃないかと思っている間に複数の無作法な足音が上がり込んできた。
聞こえる数から想像するに4、5人、おそらく靴も脱がずに入ったのであろう足音は、家主が仕事に使っている部屋の方へ入って行った。壁ごしにあちこちひっくり返す音がする。紙を落としたり集めたり、引き出しを開け閉めしたり、パソコンのコードを抜いたり。
あいつ何かミスったのかな。仕事中の横顔が思い浮かぶ。液晶の光を反射する目。時々ちらりとこちらを見て笑う口元。ほんと、俺の次ぐらいにはいい顔だったんだけど、どうしたんだろう。心配したら急に悲しくなって、ぽろりと目から涙がこぼれた。
寝転んだまま流れる涙をそのままにして、だんだんセンチメンタルな気持ちに浸りかけていると、足音がひとつこちらの部屋を開けた。視線をやると黒いスーツの男と目が合う。もう1人同じような風貌の男がやってきて、2人でこちらを見ながら嫌な笑い方でなにやら耳打ちしあった。
よくないことが起こる予感しかしない。
だだ、そうだとしても、それでもいいのかもしれない。どうでもよくなって目を閉じると、聞いたことのある声がした。
「それ、俺のだから。あっち行ってて。」
ふ、と頭を上げる。他の2人を追い払って頭を屈めて入ってきたのは、久しぶりに見る弟だった。
「見つけた、兄さん。」
俺と同じ色の目にとらえられて、息が詰まった。
体ががたがたと震え始める。条件反射だった。恐怖と痛みを愉悦として俺に教え込んだ弟。ここ2年ほど、逃げ続けてきた弟。
「イケてない奴につかまるの好きだよね。」
大股で近づいてくるその顔から目が離せない。最後に会った時と少し印象が違ったのは、襟足から耳のあたりまで刈り上げられているからか。
そんな髪型するんだ、と間抜けなことを思ってみるがとても口にはできなかった。
弟はベッドのそばまで来て、俺の顎を軽く持ち上げ、腫れた頬をまじまじと見た。その手首で見たことのない数珠がじゃり、と揺れる。
「兄さんの顔をぐちゃぐちゃにしたい気持ちは共感できるなぁ。でもダメ。全然イケてない。」
ばち、と電気が走って体が左へ飛んだ。遅れて右の目がちかちかする。数珠の石が当たったのだろう、目のふちがへこんだ気がした。
「今度の奴は、ちゃんと痛めつけてくれたんだね。よかったね兄さん。」
頭をつかまれる。弟はベッドに乗り上げて、舐めて、と言った。
歯がかちかち鳴る。なのに、耳の奥から熱くなっていくのがわかった。鼓膜のあたりで生まれた熱が、顔の真ん中へ伝わり、喉の奥へと流れていって、腹の底へと広がる。これからすることに体が期待をしてる。
弟は真顔でつかんだ俺の頭を股座へ導いた。
震える指でスラックスの前を開ける。重力に従って下を向いたままのものを取り出し、口に含んだ。生暖かくてやわらかい。含んだまま、口の中に唾液を溜める。それを舌で塗りたくるようにしてから啜った。
何度か繰り返すとだんだん熱を帯びて固くなってくる。舌を押し返してくる弾力を感じて、自分の下半身が熱くなるのがわかる。
舌を伸ばして竿をざりざりこすりながら、喉奥で絞るように吸い、今度は頬を緩めてギリギリまで押し出す。喉奥へ吸い込むたびに大きさが増して、圧迫感が強くなる。
口いっぱいに膨らんできたところで一度離すと、弟のそれは立派にそそり立った。
「なに、みとれてんの?」
じっと見てしまった俺の頭をまた弟がつかむ。唇にぴたりと熱い切っ先がつけられて、促される。鈴口に滲んだ液体を舐めとると、弟の顔が不機嫌にゆがんだ。
「まだ仕事の途中なんだからさ、そんなじっくりやってる場合じゃないでしょ。」
頭を掴む腕にぐっと力が入って、先を舐めていただけのものが口の中に押し込まれ、さらに喉奥へとたたきつけられた。一瞬気道を塞がれて鼻から変な息がもれる。
「ほら、がんばって。」
両手で頭を掴み直されて、喉奥のさらに奥へと入れられる。
えずいてしまうも許されず、食道からあがってきそうな胃液を戻そうと喉を締めてしまう。
そんなことはお構いなしに、弟は俺の頭を揺さぶった。がつん、がつんと喉奥が圧迫される。鼻から抜ける空気が生臭い。歯を立てないように必死に唇をすぼめ、舌の根本を広げたり狭めたりして弟が早く気持ちよくなれるよう吸い付く。
時々おぇ、と汚い音が漏れたが止めてはくれなかった。
奥の奥まで突っ込まれると頭がぼうっとしてきて、もしかしたら弟のこれをこのまま飲み込んでしまえるんじゃないかなんて馬鹿なことを考え始める。飲み込んで、胃の中で溶かして。
「集中して。へったくそ。」
逸れた意識を戻される。
胃液がせりあがってくるたびに上からたたきつけられて塞がれる。
ただの穴になってしまった俺の喉に、何度も何度も容赦なく熱い塊が押し入って、息も吸えない。咳き込みたいのにかなわなくて、逃げ場を求めて鼻水が噴き出る。飲み込めない唾液で口のまわりはぐちゃぐちゃだ。それでも弟がイキそうな気配はない。
「相変わらず変態だね。」
急に口を圧迫していたものが抜かれる。一気に空気が入ってきて、激しくむせた。
酷くされていたのにぱんぱんに張った下半身を、足で押されて呻く。
弟は苛立った様子でため息をつくとスーツのポケットから煙草を取り出し、火を付けた。もう一度ポケットに手を入れ、今度は薄いプラスチックケースを取り出す。
知っている。それは。
「手、出して。」
シーツを指して言われるが、震えて手が動かない。かつて何度も体験した感覚が手に記憶されている。ぶるぶると震える俺の手を遠慮なく弟が掴んでシーツに置いた。
「やめ…てくれ……」
掠れて声にならない。
弟は初めて少しだけ笑うと、ケースの中から細い針を取り出した。息が詰まる。冷や汗が噴き出す。震えが止まらない俺の手にゆっくりと針を当て、弟が爪と指の間に針を刺した。
「っぐぅっ……!!」
2年ぶりの痛みに体中が毛羽立つ。小さな点のすさまじい痛み。息が止まる。目がチカチカする。指先が新たに猛烈な熱を生み出して一気につま先まで熱くなったかと思うと、触ってもいないのに達してしまっていた。2年経っても、教え込まれた体の反応は素直だった。
「気持ちいいね、兄さん。」
痛みと情けなさで涙がぼろぼろ溢れる。視界が滲んで弟の表情はわからない。頭ではいいんだかよくないんだかわからないのに、体中が悦んで血が沸き立つ。
「お仕置きなんだかご褒美なんだかこれじゃわからないな。ほら、俺のもちゃんと気持ちよくして。」
針を刺したままの手をそっと撫でて、暴れたら危ないよ、と呟き、弟は再び俺の髪に指を絡めた。
あきらめて口を開ける。
いいこ、と弟が笑って、ためらいなく怒張を突っ込んできた。
また嘔吐きそうになるのを耐える。首から下の力をなるべく抜くようにして、ただしゃぶりつくことだけに集中する。
後頭部まで貫かれるんじゃないかと思うほど、奥深くまで何度も何度も入れられて、性器になった口が気持ちよさを拾い始める。揺らされるたび、手首の数珠が耳に当たって石がぶつかる音を立て、余計に酷くされている気分になった。
苦しい、痛い、気持ちいい、それしか考えられない。ぐいぐい頭を押さえられ、酸素が足りなくなって意識が朦朧としてきた時、弟が指に刺さったままの針をとんとんと触った。
「っ……!!」
痛みで喉が締まる。狭くなったそこを限界まで膨張した熱い塊がこじ開けて何度か奥にぶつかり、ついに弾けた。
どく、どく、どく、と拍動とともにどろりとした精液が喉奥へ流れ込む。匂いが鼻から抜け、涙がまた零れた。
最後の一滴まで俺の口に流し込んで、ようやく弟は陰茎を引き抜いた。
煙草の煙とともに大きく息を吐いて、服を直す。ぐしゃぐしゃになった俺の髪をすいて、手を取り、指の針を一気に抜く。爪と指の間にぷくりと血液が膨れた。痛みに顔が歪む。
「いい顔。続きは仕事が終わってからね。」
指先を咥えられてじゅる、と吸われると、痛みとは別の痺れが指先に広がってぞくぞくした。これは恐怖なのか、期待なのか。
「久しぶりなんだから、ゆっくり遊んであげる。」
目を細める弟に手を伸ばす。頭の奥からはもうずっと、逃げろと警告が聞こえているのに、無視した。髪に触れる。振り払われなかったから、そのまま頭に顔を寄せ、刈り上げられた後頭部に鼻をうずめた。短く尖った髪が押されて倒れ、地肌の感触が熱い。深く吸い込むと、脂と煙草の匂いがした。
「キモい。」
引きはがされて、ベッドに戻される。
まだ家探しの音がする部屋の方へ戻っていく後ろ姿を見て、ああ家主はもう帰ってこないのだろうと思った。結構好きだったのにな。そんなことを思ってみたけど、気に入っていたはずのあの男のイキ顔は、もう思い出せなかった。
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