今日から試験期間に入る。いつも頼まれる部活の助っ人もその時期だけはぱたりとなくなり、帰宅時間が早くなる。店番も免除される。教科書とノートをぱんぱんに詰めた重いリュックを肩にかけ、クラスメイトに雑な挨拶をして炭治郎は1年生の教室へ走った。
「無一郎!」
目当ての長髪を見つけて声を上げる。ホームルームが終わったばかりなのか、せっせと荷物をリュックにしまっているところだった。教室の出入り口で帰り支度を待って、2人で走り出す。だいぶ秋らしい空気になったとはいえ、全速力で走ると汗をかく。横を走る無一郎を見るが、炭治郎に比べるとずいぶん涼しい顔だ。それでもこめかみを拭っていたから、体温は上がっているのだろう。途中でコンビニに駆け込み、飲み物やおやつを買うついでに学ランを脱いで小脇に抱えた。また2人で走り出す。
試験期間は好きだ。おとなりの家に長時間上がり込む正当な理由ができるから。
炭治郎の家はパン屋だ。小さいけれど馴染みのお客さんも多く、祖父の代から地域に支えられ営業を続けている。店の裏手が竈門家になっていて、祖父のころに建てたという家は、流れてきた年月を感じられて、炭治郎は好きだった。
道路をはさんで向かい側に白くて可愛い家が建ったのは炭治郎が3歳のころだったそうだ。引っ越しの挨拶に来た奥さんが、2歳の双子を育てていると言ったので、炭治郎の母とはすぐに打ち解けた。竈門家の長女、禰豆子と双子が同級生だったこともあって、幼稚園に入ってからはお互い送迎をしたり、お菓子や野菜をおすそ分けしあったりといった風な付き合いだった。
パン屋の隣に同じく祖父の時代から建っていた、古い家の爺さんが、炭治郎が小学4年生の時に亡くなった。
戻る人が誰もいないのか、しばらく空き家だったのち、更地にされてしまった。5年生の終わりごろ、その土地にワンルームマンションが建った。年度が替わるのにあわせて、学生らしき人や単身赴任のような人がそこに越してきた。
宇髄天元は、その中の一人だった。
「今日宇髄さんバイトないって。」
ちゃっかり予定を確認済みのトークアプリを無一郎が見せる。去年は中学生になった炭治郎だけがスマホを持たせてもらっていて、天元と直接連絡を取っていた。無一郎は1学年しか違わないのにその天と地との差に憤慨した。めでたく中学にあがって自分のスマホを持たせてもらえてから、1年分の穴埋めをするように積極的に連絡を取った。
「じゃ明日も平日だから、早めに行って早めに帰ろう。」
炭治郎がそう返すと無一郎が頬を膨らませた。
「えー、早く行って遅く帰ろうよ。」
「だめだよ、宇髄さん困るじゃないか。」
2人の間で、抜け駆けは禁止、ということになっている。どちらかがひとりで天元と会うことになっても、もうひとりに必ず連絡を入れる、と約束した。炭治郎も無一郎も天元のことが大好きだったが、それと同じくらい、お互いのことも大事な友達だった。
無一郎の膨れ面に苦笑しながらさらに走る。ちらりと腕時計を見ると、5時前。
「汗臭くないかな?」
じっとり濡れたシャツの中に鼻をつっこんで嗅いでみる。
「臭いね。シャワーしてからにしようよ。準備できたら家の前に出てるね!」
2人でうなずきあって、それぞれの自宅に走りこんだ。
パン屋の横の、猫が通るような路を抜け、炭治郎は施錠されていない扉を開ける。カバンとコンビニで買った袋は玄関の隅に置いた。
「兄ちゃん、おかえりー。」
居間でおやつを食べていた小学生の弟に声をかけられる。ただいま、と手だけ振って2階に続く階段を駆け上がり、適当な着替えを取って、駆け下りた。
「また出かけるの?」
「今日から試験期間!となりで勉強させてもらうから、帰って夕飯食べるって母さんに言っといて!」
しゃべりながらそそくさと濡れた服を脱ぎ捨て、風呂場に飛び込んだ。
頭から熱いシャワーをあびながら、大急ぎで、でもできるだけ丁寧に汗と汚れを洗い流す。天元の部屋にお邪魔する時は、清潔にしておきたかった。あのきれいな人の部屋に、汚れたまま入るのは申し訳なかった。つま先まできれいに洗って、鏡で自分の顔を確認する。ばちん、と両手で頬をはさんで気合いを入れ、風呂を出た。
家を出るともう無一郎が待っていた。そわそわと落ち着かない様子だったが、ちょっと悪い顔をしていた。何か言いたそうだったけど、言葉は飲み込んだようだった。
2人でパン屋のとなりのワンルームマンションに足を踏み入れる。1階の、いちばん奥。チャイムを押すと、ぽーん、と鳴る。しばらく待つと、中から鍵が回る音がして、扉が開いた。
「おう、来たか。」
長めの銀の髪を今日はうしろでひとつに束ねた天元が、顔をのぞかせた。左目のまわりには梅の花を思わせる模様が描かれている。炭治郎と無一郎は黙ったまま3拍、その顔を見つめた。はねた髪で素顔の日もあるが、このばっちりと決まった顔も、何度見ても格好いい。
「お邪魔します。」
一足先に我に返った無一郎が先に踏み出した。慌てて炭治郎も後を追う。靴をそろえて部屋に入る。2人でいつもの場所に座り、勉強道具を広げた。まずは今回の試験範囲を確認していると、無一郎が古文の問題集を開くのが見えた。間違えたところや、わからなかったページの角が折られている。一度にバラバラの教科を教えてもらうのは気が引けるので、炭治郎も授業だけではよくわからなかった所に付箋を貼った古文をやっつけることにした。
パン屋の店番をしながら宿題を解いていたとき、たまたまつまずいた所を、上から覗き込んで教えてくれたのが天元だった。見上げると赤いつり目と目が合って、あまりに整った顔が、にっと笑って、心臓が飛び出るんじゃないかと思った。
よくお店に来てくれるのは知っていた。背が高くてきれいな人で、母や妹が浮かれて多めにおまけをつけていた。炭治郎が店番の時に来ることはあまりなくて、こんなに近くで顔を見たのは初めてだった。
どうしようもなくいい匂いがして、胸がばくばくして、珍しく口ごもりながらお礼を言った。そうしたら、他にもわからないところがあったら教えようか、と言ってくれた。いつもたくさんおまけをもらってるからと。
それから、授業で理解が追いつかない所があれば、教えてもらうようになった。最初はお客さんの少ない時間帯に、レジ横にノートを広げて。中学になると、テスト前に家に上げてもらえるようになった。自宅は弟や妹がいて落ち着かないと炭治郎が言ったら、じゃあうちでやるか、と言ってくれた。天元に教えてもらうようになってから、テストの点が明らかに上がったので、誰にも止められなかった。母はさらにおまけを上乗せするようになった。
同じく学校の宿題に困っていた無一郎を誘った。何日か天元の家で勉強するうち、狭い空間に2人きりでいることにわずかな罪悪感のようなものを感じたからだ。美大生だという天元の家は、薬のような匂いと天元の匂いがまざった、わき腹がくすぐったくなるような居心地だった。部屋の匂いをいっぱいに嗅ぐと、吸い込んだ空気が通っていった眉間が熱くなった。
双子の兄、有一朗は勉強が得意だったが教え方が無一郎には合わなかった。すぐに、なんでわかんないの、と言われるから勉強のことは聞きたくない、と言っていた。天元は快く引き受けてくれたし、無一郎も天元のことがとても気に入ったみたいで、あの赤い目をじっと見て、あとでこっそり、
「きれいな人だね。」
と同じぐらい赤い顔で言った。試験のたびに2人で家に上がるようになった。店でも会えるなんてずるい、と無一郎は言った。抜け駆け禁止令を作ったのはその時だった。会えば会うほど、少しの時間でも会いたくなったし、声が聞きたくなった。とはいえ、天元は学校も忙しそうだったし、バイトもしていて、なるべく時間を合わせるために連絡先も交換した。
「だって宇随さんのこと好きなんだよ。」
最初に口にしたのは無一郎だった。2人ともが中学生になって初めての夏休みだった。ひとつ下なのに、無一郎は自分よりよっぽど大人びていると炭治郎は思っていたが、思ったことを簡単に口に出すところは子どもだった。夏休みなのにうちで宿題ばかりしてないで、遊びに行ってきたら、と何の気なしに言った天元に対しての、言葉だった。
困った顔の天元が何か言う前に、無一郎は続けた。
「違うからね。憧れだとか勘違いだとか、そういうの言わないでね。子どもだってこともわかってるし。でも好きだってこともわかってる。やましい意味で。」
にらむように見つめる無一郎。しばらく考えこんだ天元は、大きく息を吐いて睨み返した。
「それを言われたところで俺は、いいとかダメだとか、考えることも許されねぇからな。」
「門前払いってことですか?」
横から口を挟んだのは炭治郎だった。無一郎の匂いがとても切羽詰まっていて、天元をにらんではいたけれど、とめどなくあふれてくる好意と嫌われたくないという怯えとが鼻を突き刺して、助け舟を出さずにいられなかった。
「そうだよ門前払いだ。俺はおとなで、お前らは子どもで。やましい意味で好きだとか嫌いだとか、そういう風に考えること自体が、おとなはダメなんだよ。」
諭すように言う天元に、無一郎は納得なんてしなかった。その日は宿題もそこで切り上げて、追い出されるようにして部屋を出た。珍しく怒った匂いをさせて、天元は炭治郎に言った。
「友達だからって、たきつけるようなこと言うなよ。」
そんな顔はほとんど見たことがなかったから、魅力的だった。
「もう言いません。でも無一郎は納得していないと思います。」
「納得してるとかしてないとかじゃねぇんだよ。」
「わかっています。でも俺も納得できません。」
「お前な……」
「俺も宇随さん、好きなので。」
きっぱり言い切って、顔を見たら、怒りを通り越して呆れていた。
それからしばらくは、炭治郎も無一郎も既読無視された。仕方がないので、言われたように学校の友達とも遊んだ。プールに行ったり、誰かの家に集まって漫画を読んだり。いかがわしい雑誌をみんなで見る日もあったけど、天元以外にはまったく興味がわかなかった。無一郎も、同じようだった。
天元に会えないと、宿題をやる気力がなくなって、夏休みが終わる1週間前になって、炭治郎はわからない数学の問題だけをトークアプリで送った。すると呆気なく返事がきた。ノートに書いた計算式と答えを写真に撮って送ってくれた。あれから宿題終わってません、とさらに送ってみたら、次の日久しぶりに家に上げてもらえた。
浮かれて2人で訪ねたら、天元の家で勉強するための条件を付けられた。高校を卒業するまでは天元に対して好きと言わない、勉強以外のことで会わない。
厳しい条件に炭治郎と無一郎は顔を見合わせた。高校卒業まで、思いを伝えることすら許されないなんて。無一郎がぶつぶつと食い下がってみたが、条件に関して天元は一歩もひかなかった。そこには強い決意の匂いが感じられた。
ただひとつ、天元が、彼女を作れとか、そういうことを言わなかったことが救いだった。
夏休みが終わって、2人とも無事に宿題を提出した。休み明けの実力テストは結果が返ってくるたび天元に報告した。それも終わってしまうと、家にあがるほどの理由がほとんどなくなった。
たまたま店番の日に来てくれたとか、家の前で会ったとか、挨拶程度しかやり取りできないうちにすっかり秋らしくなった。ようやく待ちに待った試験期間が始まって、久しぶりに、家に上げてもらえた。
「ねぇ宇随さん、今日やるところが全部終わったら、ご褒美ちょうだい。」
やりかけの間違い直しから顔を上げて、無一郎が、さっきコンビニで買った物を机に出した。ずらりと並んだお菓子を見て、
「終わらねぇと食べられねぇの?」
と天元がおもしろそうに言った。
「古文は嫌いだから、何かいいことがないとやる気が続かないんだよね。」
「いいぜ。可愛いとこあるじゃん。」
そういって天元は無一郎の髪を撫でた。うらやましそうにそれを見た炭治郎の方へも手を伸ばして、くしゃ、と髪に指を絡めてくれる。
「炭治郎も終わったらご褒美な。ここ、間違ってんぞ。」
触ってもらえてどきどきさせられたかと思えば、ノートに意識を戻された。正しい文法が載ったところを大きな指でとんとん、と指してくれる。示された所を見ながら、間違っていた文法を書き直す。ちらりと横目で無一郎を見ると、真剣な目が少し笑っていて、単純にご褒美がもらえることに喜んでいるようにも見えたが、それだけではないようにも思えた。そういえば家の前で待ち合わせした時、企みの匂いを漂わせていた。その時教えてくれなかったから、何を考えているのか炭治郎にはさっぱりわからなかった。
やる気が持続したからか、炭治郎より一足先に、無一郎は今日の分を終わらせた。直しが終わった箇所をひとつひとつ確認し、天元はよし、とノートを閉じて返した。ご褒美のおやつはどれにすんだ、と聞かれて、無一郎は大きくて真ん丸な飴が何色も入った袋を取った。
「飴でいいのかよ?」
「これがいいんだよね。」
無一郎は適当に1個取り出すと、個包装のビニールを破り、透明な青色の飴玉をつまんだ。そのまま、天元の顔に近づける。
「あーんして。」
「は?」
「ご褒美。俺が、食べさせるの。はい、あーん。」
空気が止まる。天元は動かない。漂ってくるのは、困惑と疑心の匂い。
「ご褒美くれるって言ったでしょ。俺が食べるとは言ってないよ。やってみたいだけなんだ。変なものは入ってないから心配しないで。」
子どもだから、と無一郎が強く言って、乗り出して天元の膝に手をかける。少しためらっていた天元が、仕方がないという風に、あきらめ顔で小さく口を開けた。無一郎の指が、飴玉をその唇に付ける。そのままころりと口の中に押し込んで、ついでに指も入れてしまう。天元が飴玉を飲み込んでしまわないようにと意識をやったのをいいことに、無一郎の指が舌を捕まえた。
「う、」
そのままゆっくり舌をこすり、上あごをなでる。また舌をつかんで、引っ張り、離したかと思えば、また捕まえる。天元から嗅いだことのない濃い甘い匂いが膨らみ、炭治郎はその口元から目が離せなくなった。口の中で行われていることは見えないが、無一郎がなにかいけないことをしているのはわかった。指を含んだ頬がふくれたりへこんだりして、どうしようもなく煽情的で、穴があくほど見つめてしまった。飴玉が口の中を転がるのと、無一郎の指が好き勝手に触るのとで、唾液が口の端からこぼれた。無一郎がもう一本指を入れようとしたところで、天元がその手首をつかんで止めた。口内から指を引っ張り出す。
「クソガキ。」
睨む天元に、無一郎は笑った。この間の怒った顔よりも、ずいぶんとゆるんだ表情だった。横で見ていた炭治郎は思わず手を伸ばした。口からこぼれた唾液を拭われてしまわないように、指ですくって、その少し青みがかってキラキラした液体を、舐めた。
今まで食べたことのあるどんな飴よりも、甘い味がして、舐めた舌先からじーんと痺れるようだった。
天元は無一郎にのしかかられていた体を起こすと、テーブルの上からティッシュを取って、自分の唾液が絡んだ指を雑に拭いた。
「あ!俺も舐めたかったのに。」
無一郎が不満そうに言うと、つかんでいた手首を離して、洗ってこい、と天元が洗面所を指した。舌打ちしながら無一郎が手を洗いに行ってしまっても、まだ自分の指を舐めていると、お前もだ、と額を指で押されてしまった。
冷たい水で手を洗ったら、夢から覚めたような心地になった。さっきはスローモーションで見えていて、匂いや音がはっきりと記憶に残ってしまった。無一郎はすごいなと思った。なんであんなことを思いついたんだろう。天元に好きとは言ってないし、今日は勉強しに来ているし、約束は破ってない。いいなぁ、自分もやりたい、あの薄い唇に、指を入れてみたい。炭治郎はそう思ったけれど、きっと、もうさせてもらえないだろうとも思った。
ちょうどその日やることにしていた範囲は終わっていたこともあって、夏休みのあの日みたいに、そそくさと部屋を出されてしまった。
「もーいっこ、条件追加な!」
玄関を出るとき、天元が忌々しそうに言った。
「俺を触るの禁止!」
おとなで遊ぶな、と大きな音を立てて扉を閉められた。
すぐ帰る気にはならなくて、玄関灯の明かりが届く、無一郎の家の花壇のふちに並んで座った。時計を見る。8時前。すっかり暗くなって、肌寒い。明日も平日だから元々早く帰るつもりではいたけれど。放課後走って家に帰った時はあんなに呼吸と体温が上がっていたのに。
「触るの禁止だって。俺今日ご褒美なかったのに。」
炭治郎が頬を膨らます。
「ごめんね炭治郎。怒らせちゃった。」
俺たちが子どもだから。
2人で大きくため息をついた。試験期間は始まったばかり。明日は家に上げてもらえるだろうか。炭治郎は、あの零れた唾液をすくった指先を嗅いでみる。もう石鹸の匂いしかしなかったけれど、わずかでもあの甘い匂いが残っていないだろうかと何度も鼻を鳴らした。
「高校卒業まで、長いなぁ。」
「それまでに俺たちがこんな気持ちは忘れるって、思ってるってことでしょ。」
向こうはおとなだから。
だけどわかってない。子どもは意外としつこいし、ダメと言われれば言われるほど、欲が膨れ上がる生き物なのだ。
無一郎は膝を2回たたいて立ち上がると
「とりあえず、宇随さんに触らなくてももらえるご褒美、考えるね。」
と言って、また悪い顔をした。
炭治郎も立ち上がる。それなら自分は、寝るまでに、天元を納得させられるだけの謝罪文を考えよう、そして明日も部屋で勉強させてもらおう。今はまだ、それでしか会う時間が稼げないから。
自宅へ入っていく無一郎に軽く手を振る。その指先をもう一度自分の鼻先に寄せてから、炭治郎もパン屋へと足を向けた。
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