コビロ

焦っているつもりなんかなかったけれど、思ったより気が急いていたのだと思う、お互いに。いずれ近いうちにはと告げてから、タイミングをはかりかねていた。八つも年上の人を相手に、失敗することを考えて怖くもあった。恥をかかせるようなことがあってもならないなんて、生意気なことも考えた。でも結局あなたが、そういうものを飛び越えてくれるから、僕は甘えてしまっているのだと思う。
小さな運転席に収まっていた足がにょきりと伸びて、長い腕がこちらへ伸ばされるのに、僕はまだ言葉の意味をモタモタとほどいていた。
「そっちへ行ってもいいか」
返答に焦れるには短い間だったはず。狭い車内だから、「そっちへ行ってもいいか」はいつものソファのようにローさんが僕を膝に乗せるというわけにはいかない。背の高いローさんの頭が天井に当たってしまったら痛いと思う。その長い足はコンソールに引っ掛かるかもしれないし。
迷いが頭をめぐる間に頭がまわっていて、助手席の僕はフロントガラスの向こうから月に照らされていた。同じ色の目に見下ろされている。ハンドルを握っていた手が器用にレバーを引いて、助手席ごと僕は沈められていた。「そっちへ行ってもいいか」はその通りに実行され、大人の重みが大腿に乗っていた。どっと鼓動がボリュームを上げる。
「ローさ、」
言い切る前に塞がれる。インターチェンジで買ったブラック珈琲の苦味が舌に乗る。月光を遮られて真っ暗になった視界はバチバチと赤い閃光が時に瞬き、閉じているのか開けているのかわからなくなる。頬にかかるローさんの呼吸が早い。たぶん僕も。こんな、道の駅の端、隠れるように停めた愛車の中で。早鐘を打つ心臓の音しか聞こえなくなる。忙しなく絡め取られた舌を吸われている。ローさんが普段仕掛けてくる、ゆっくり僕との境界線を溶かして、テリトリーに引き込むようなものとは違う。なにか決意のようなものをさせてしまったのかもしれないと、気づくには十分すぎた。
緊張を高め合うような日は何度かあった。拳を開いて、掌を隙間なくつけて、鼻息がかかっても許されるのだと教えてもらった。頸動脈が波打つのを頬で感じて、その肌のにおいを嗅いでも、くすぐってぇと笑ってくれるのだと。招き入れる意思を示してくれたのに躊躇していたのは僕だ。他人を侵略する行為は、いまだ経験のない僕にとって準備が必要だった。長く生きている分、ほかの誰かに許したことがあるかもしれないローさんに全部任せてしまえば、きっと機嫌よくなにもかも導いてくれたのかもしれないけれど、僕からも歩み寄らせてほしかった。そんな我が儘を辛抱強くきいてくれたのだと思う。なるべく待たせたくないと思うほどに踏みきれなくて。少しくらい格好もつけたかったし。そうやって僕が自分のことばかりで、いろんなことを見落としている間に、いつ僕の手を引っ張ろうかとあなたも伺っていたんですね。
待ってほしいと押し返せば止まってはくれるだろうけれど、そうすればたぶん離れてしまう。取り繕わせるような真似はしたくない。行き場に困って縮こまっていた腕を伸ばして、小さな頭をそろりと抱いた。どくどくと脈打つ後ろ首に触れるとぴくりと跳ねる。緊張、しているんだ。僕なんかよりはるかに大人なあなたが。
一方的に吸われるままだった舌を取り返して並んだ前歯をなぞると、鼻から抜けたようなくぐもった声が落ちてきて、いっそう胸がどどっと鳴った。上顎を舐めると震えてしまうことを知っている。息を継ぐために唇を離すのさえ厭わしいと思うくらいキスが好きだということも。だけどこのまま進めることはできないから。息を吸うふりをしてローさんの頬に手を添えた。
「僕、謝りません。謝らないし、自分勝手を言います。やり直しをさせてください」
ローさんは目を丸くして、そして舌打ちをした。この人の回転の速さには舌を巻く。ちょっと気の毒に思えるほど。
「おれがいいって言ってんだから、今でいいんだよ」
「いえ、その、緊張しすぎて、できないです」
ローさんの手を僕の心臓の上に置いた。飛び出そうなほど暴れるものが、勢いを失うことなくずっとそこを内から叩いている。ローさんは大きな手で宥めるように撫でて、そして視線を足の方へやった。結局格好はつかなかったけれど、正直なところ、勃たなくてよかった。もしそうなっていたら、たぶん流されていた。
「ふはっ、可愛いな。舐めるか? 勃たせられるかも、しれない」
「ここじゃないところで、したいんです」
僕をどこまででも連れてってくれる愛車で、あなたが肘をぶつけたり痣をつくったりすることになってまで、このまま踏み越えようと思わない。ローさんがご機嫌でいられる空間だから。それにこの不自由を楽しめるほど、まだ僕は大人でないので。
話す間、たぶんローさんは色んな顔をしたと思う。よく見えないのが本当に残念だった。
いつかここでしたい時がきたら、その時また深い夜に連れて行ってほしい。
「子どもですみません」
「さっき謝らねぇって言ったくせに」
「それは、待たせたことに対してです」
「おればっかり」
拗ねたように、熱を持った膨らみを押し付けてくるから、かっと熱くなった顔が吹き飛ぶんじゃないかと思った。もつれる口で名前を呼んで、黒髪を抱き寄せて胸元に押し付ける。勘弁してほしい。
「僕だって、ローさんが近すぎて収まりませんよ」
「口先ばっかり上手くなりやがって」
もう一度舌を打って、ローさんは猫か犬みたいに額をそこへぐりぐりと擦り付けた。
「僕から声をかけますから。僕が、誘いたいんです」
ローさんはよく僕の頭に鼻を埋める。そうして吹き込まれる息が暖かいから、どうやっても縮められない身長差だって愛することができる。いつもは届かない地肌で思い切り呼吸すると、Tシャツの上をローさんのまつ毛が動いた。同じ色の髪の先が照らされて、濡れたみたいに光っている。そう遠くない新しい夜に、ここではない場所で同じものを見る。格好がつかなくとも、何度やり直しても、次の夜を迎えることをきっと許されている。
腹部で触れるあなたの鼓動が、ちっとも忙しさを忘れられない僕と重なって、鼓膜を叩いている。

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